「な、なんでそんなオロカなことしたのだ?」
と叱られてしまいそうですが、また下らぬ本を買ってきてしまいました。
清・道光年間に福申というひとが編んだ「俚俗集」という本で、これはもと稿本のみ伝わっていた(すなわち印刷に付されたことがない)らしいが1992年に北京の「書目文献出版社」が影印本を出版してくださったものである。浩瀚な書物を渉猟して、チャイナの風俗史に関わる事項を収集したいわゆる「類書」という種類の書物で、事項数は実に2万5000条に及ぶのだ。これを税込み1575円で入手したのである。誰でも「勝った!」という気分になるでしょう。(なりませんか?)
ちなみに福申という名は、姓が福で名が申か、と思うかも知れませんが違いました。満族正黄旗人にして嘉慶十六年(1811)の進士、後に内閣殿学士に昇ったバリバリの満洲貴族なので、「福申」という名だけで通用される。字は佑之、禹門と号す。道光八年(1828)辞職して以降は家居して学問に励んだ。その一環として、膨大な諸書を閲して本書を編んだのであるが、おそらく道光二十五年(1845)までには成っていたらしいということである。
とりあえず、「俚俗集」を「えい」と開いて任意のページを読んでみました。
巻四十四「俗忌考下」(民間のタブーについての考察・下)という章が出てきました。
―――明・高濂の「遵生八牋」が言うには、
勿強忍大小便、勿努力大小便、夜宜開眼出溺。
大小便を強忍するなかれ、大小便を努力するなかれ、夜には開眼して出溺すべし。
そうである。
大小便を無理にがまんしてはいけない。逆に大小便を無理にしようとしてもいけない。夜中に小便をするときは目を開いてしろ。
というのである。
むむう。勉強になります。
また、
燃燭而寝、神魂不安。臥開口、則泄真気。
燭を燃やして寝ぬれば神魂安んぜず。臥するに口を開けばすなわち真気を泄(も)らす。
燭を焚いたまま(灯りを消さずに)眠ると精神が安定しない。横になったとき口を開けていると、体内の生命の本質が抜けて行ってしまう。
とか、
勿戯画睡者之面、恐其魂不認尸。
戯れに睡者の面を画くなかれ、恐らくはその魂、尸を認めざらん。
おふざけに眠っている者の顔を絵に描いてはいけない。その魂が、自分の抜け殻を間違ってしまうかも知れないからである。
とか書いてある。これは眠っているときには魂が体から離れているのだ、という俗信が前提となって、眠っている者の顔を絵に描くと、離れていた魂が眠っている自分に戻ろうとしたとき、自分と絵のどちらが本物の自分かわからなくなって最終的に自分に戻れず離魂病となって死んでしまうことがある、ということを心配しているようです。絵の下手なひとなら心配は無い気もします。なお、われらがいまだに宴会などで酔って寝ているやつの顔にマジック等で落書きをして喜んでいるのは、かつて眠っているひとを異形にして魂に自分であると認識できないようにした呪術の名残なのである。これはほんとですよ。そのような無意識下の記憶が無ければ、あんなにくだらないことがあんなに楽しいはずがないではないか。