易の考えに、「天地人三才」といいましてな、天と地と人、世界はこの三つの「材」で出来ている、という考えがありますのじゃ。
しかし、陳眉公(1558〜1639)は首はひねった。
「それだけでは言い得ていない。少し付け加えなければね」
「どう付け加えればよろしいかな」
と問うと、陳眉公はにやりと笑って答えた。
天之風月、地之花柳、人之歌舞、無此不成三才。
天の風月、地の花柳、人の歌舞、これ無ければ三才を成さず。
天に風と月、地に花と柳、ニンゲンに歌と舞、これが無ければ世界を作り上げられるものか。
「ははあ、なるほど。そうかも知れんねえ」
とわたしは相槌を打っておいた。
戯語。亦自有理。
戯語なり。また自ずから理あり。
おふざけの言葉だ。しかしながら、どこかに正しいことを含んでいるようでもある。
「風月」「花柳」「歌舞」いずれも「いろまち」を連想させる言葉であるのがおもしろい。
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袁中郎(1568〜1610)がふと言うた。
有人隔帘聞堕釵声而不動念者、此人不痴則慧。
人の、帘(レン)を隔てて釵(サ)を堕(お)とすの声を聞き、而して念を動かさざる者は、このひと痴ならざればすなわち慧なり。
カーテンの向こう側で金属のかんざしが落ちる音がした、としたまえ。そこにどんな女性がいるのだろうか。心を動かさないひとがいるとしたら、そのひとはすごい阿呆かすごい賢者だろうな。
「帘」(れん)は「幕」である。元は酒屋の幟を言うたらしい。
「ははあ、そうかも知れんねえ」
と相槌を打ってやったら、中郎にやりと笑い、
我幸在不痴不慧中。
我、幸いに痴ならず慧ならざるの中にあり。
「わたしはありがたいことに、すごい阿呆でも無ければすごい賢者でも無く、その間なんだよな。」
わしは「うんうん」と頷いてやった。
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友人らと畸荘亭に集って桃の花を看ながら宴した。
突然、小さなつむじ風が吹き、桃の花びらが舞い上がった。これを見て、呉巽之(ご・そんし)がしみじみと言うた。
万点愁人。
万点、ひとを愁えしむ。
数えきれぬ片々よ。どうしてこんなにおれを憂いに沈めるのか。
それから、「ああ、ああ」とため息を何度もついた。
それを見て、郝公琰(かく・こうえん)が言うた。
巽之可憐惨淡、不啻花心。
巽之、惨淡を憐れむべく、ただに花の心のみならず。
巽之はいつもながらこんなさびしいことが好きなんだよな。花を愛する気持ちだけじゃなくて。
「そうだねえ」
と、わしは相槌を打った。
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明の文人・曹臣の「舌華録」(巻十)に拠った(この書は萬暦乙卯(1615)に出版されている。なお、上の三話のうち一話目と二話目は本当は彼の同席した場での語ではない。他に典故があり、そこから引用しているのであろう)。晩明というのはこういうふいんき(←なぜか変換されな(ry))の時代です。
曹臣、字・藎之について、「列朝詩集小伝」(丁集下)に簡単な伝があったので、ここに紹介しておきます。
――――曹臣、字は野臣(←「藎之」とは別の字があったようです)、安徽・歙(キュウ)県のひとである。
わたし(銭牧斎)がかれと長安で知り合った。古風な四角い頭巾をかぶり、庶民の着る布の上着を着ていて、飄飄として世間を抜け出たような気分の男であった。
知余有書癖、数為余訪求古書。
余の書癖あるを知り、しばしば余のために古書を訪求す。
わたしが書物マニアであるのを知って、何度もわたしのために古い書物を探して来てくれたものだ。
これを見ると古書の仲買、セドリみたいなことをしていたのでしょう。
後没于白下。
後、白下に没す。
やがて、白門の町(=南京)で死んだ。
彼の詩は言葉をあちこちと苦しみながら探し、どんどん他のひとの知らないような典故に入り込んで行くタイプのもので、自分でもその癖に嫌気がさしていたのだろう、自らの詩集に
「鬼訂集」(精霊の修正した詩集)
と名づけていた。
以為非時人所知也。
以て時人の知るところにあらざるなり。
そんな風だから、世間のひとたちにその名を知られる(有名になる)なんてことがあるはずが無かった。
――――以上。
短い文ですが、そのひととなりを知るには足るであろう。