至正丙申年から丁酉年にかけて、といいますと、西暦でいえば1356〜57年、もう元末の混乱期のまっただ中で、江南では、張士誠や韓林児や朱元璋やらが入り交じって争いあっていたのでありますが、揚州の町も張と朱の間の争奪の対象となり、ほぼ全市にわたって焼かれてしまったのであった。
その焼け跡にどういうわけか、
城中屋址徧生白菜。
城中の屋址(おくし)、徧(あまね)く白菜を生ず。
城内の建物の跡には、どこもかしこも白菜が実ったのであった。
誰が植えたのかもわかりませぬが、この白菜は、
大者重十五斤、小者亦不下八九斤。
大なるは重さ十五斤、小なるもまた八九斤を下らず。
一斤は約600グラム。
大きいものは9キログラム、小さいものも5キログラム前後を下ることはなかった。
よっぽどの腕力のあるひと(「有膂力人」)でも四〜五箇を背負うのが精一杯というほどであったのだ。
亦異哉。
また異なるかな。
また不思議なことであった。
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と、南村・陶宗儀の「南村輟耕録」(巻二十三)に書いてありました。
しかし、大きい9キロものを5箇背負ったとしても45キログラム程度。この間の調査によりますと、酒田の庄内米資料館の展示によれば、明治期に山居倉庫で米俵を運んでいた女性たちの中には300キログラム(60kg俵を五俵)を背負うことのできるひともあり、たいへん誇らしいこととされたそうで、写真も飾ってありました。これと比べれば元末の強力者は七分の一ほどの能力しか無かったのか、と驚かされてしまいます。
ところで、至正年間より二世紀ほど後の明中期の博物学者・李時珍は「本草綱目」に記して、
・・・・「菘」(しょう)のことを今の人は「白菜」と呼ぶのであるが、燕、趙、遼陽などの華北地方と江南では揚州で栽培されるものは、
最肥大而厚、一本有重十余斤者。
最も肥大にして厚く、一本重さ十余斤あり。
最も肥大で分厚く、一本の重さが6キログラム以上になる。
と言うておられます。もう単なる特産物になって、別に不思議でも何でもなくなったようですね。
なお、「菘」は一般に「すずな」のことであるが、二種、あるいは三種あるとされ、その中には我が国で「唐菜」(とうな)と呼ばれる李時珍が「今人が白菜と呼ぶ」と言っている野菜(要するに現今のハクサイである)があるのである。
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―――だから何だというのだ!
と怒るひともありますかな。メッセージ性が何も無いもんだからね。