萬民望は明の中期、倭寇退治で名を馳せた勇将で、寧波(にんぽー)守備隊の指揮官であった。
弘治年間(1488〜1505)のある春の初め、倭寇の一群が上陸せんと集結しているとの報せを受けて萬将軍の部隊は舟に乗り、海上哨戒活動を行っていた。
海上哨戒は夜半に及んだ。その日は月の無い夜であった。
深夜、
「指令、あれは・・・」
と見張り番が指差す。
将軍がその彼方を見ると、
見二紅燈漾空而来。
二紅燈の空を漾(ただよ)いて来たるを見る。
二つの紅い灯火が空中を漂いながらこちらに近づいてくるのが見えたのだ。
「む」
以為倭船也、遂彎弓射。
以て倭船なりとして、遂に弓を彎(ひき)て射る。
「倭寇の船ではないか。よし、弓をしぼれ」
萬の命によって弓兵たちは舷側に並んだ。
「射て」
の令を受けて、何十という矢が「ひょう」「ひょう」と放たれる。
放たれた矢が一つの灯火を射抜いたと見るや、もう一つの灯火もふっと消えた。
「やったか? 船を寄せろ」
と――――
激しい風が四面から吹き出した。
頃刻波濤汹湧、出海軍舟倶没焉。
頃刻にして波濤汹湧し、出海の軍舟ともに没せり。
あっという間に波が高くなり、どよめき湧き上がり荒れまくり、海に出ていた軍の舟は次々と波に巻き込まれて沈んでしまった。
萬民望もこの突然の嵐に巻き込まれて難死し、彼の部下の歴戦の勇士たちは、わずかに三人を残して全滅したのである。
以来、嘉靖四十年(1612)の
至今逢此日則海中悪風大作。
今に至るもこの日に逢えばすなわち海中に悪風大いに作(おこ)る。
今に至るまで、毎年この日には、海上にはおそろしい暴風がおこり、大荒れとなる。
だから地元の漁民(←原文では「土人」)たちはこの日には舟を出さない。
そして、
遇陰雨之夜紅灯止見其一。
陰雨の夜に遇うに、紅灯その一を見るに止む。
その夜半に暗い雨の降る中で、陸の上から望むと、紅い灯火を見ることがあるのだが、その灯火は(二つではなく)一つだけであるという。
わたしは寧波の港に立って潮騒を聴きながら、老いた漁民を捉まえて、その知るところを訊いてみた。
すると、老漁民いう、
「萬将軍は、
不知乃龍睛。
知らず、その龍睛なるを。
ご存知無かったのでがすよ、あの紅い灯火は海龍の瞳だ、ということを」
「なんと。龍の瞳だったのですか」
老漁民いう、
此龍記時厄之所致也。
この龍、時厄の致すところを記するなり。
「あの龍は、星のめぐりのせいで片目を射られるという災厄にあった、その月日を覚えているのでがすよ」
「なるほどねえ。ところで、その片目の龍は普段はどこに住んでいるのですかな」
「ほれ」
老人は沖合いはるかな小島を指差した。
跡其所居、洞出海島。
その居るところを跡づくに、海島に洞出せり。
「龍の姿を見つけて跡をつけていくと、あの島にある洞くつに行きつくのでがす」
「へー。普段はそこで龍の姿を見ることができるんですね」
と相槌を打ってみたら、老人はかぶりを振った。
「うんにゃ、姿は見えないでがす。しかし、
春夏間洞傍蠅蚋担集、腥悪之不可近。
春夏の間、洞の傍らに蠅・蚋担集し、腥悪の近づくべからざるなり。
春から夏にかけての間にはその洞くつのあたりにはハエやブヨがうじゃうじゃと集まり、生臭いにおいがして近づくこともできないほどなのでがす。
やつがそこにいることは明らかですバイ」
「なるほどなあ」
わたしは納得しました。
さて、「行都紀事」という本を開きますに、武康の鴉髻山に「龍の洞」といわれる谷間があるのだが、そこでは
毎遇陰雨之夕、有紅燈見焉。相伝以為宝珠。
つねに陰雨の夕に遇うに、紅燈のあらわる有り。相伝えて以て宝珠たりという。
暗い雨の降る宵には、いつも紅い燈火が見える。ひとびとは「宝のたま」と言い伝えている。
と書いてある。
これも「宝珠」などではなく龍であること明らかであろう。
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明・郎瑛「七修類稿」巻四十より。
ただいま(明日の出勤の不安をまぎらわせるため!)エノケンを聞いています。「洒落男」(おーれーはむらぢゅうでいちばん・・・という歌)ってこんな悲しい歌だったのですなあ。ぐすん。「モン・パパ」もとうちゃん可哀そう。・・・その他「フラスキータのセレナーデ」や「弥次喜多」「ナムアミダブツ」「西遊記」など名曲目白押し。
昨日、ハコさんは「エノケンさんの青空」を準備しているようなことをおっしゃっておられた。「私の青空」すばらしいです。わたしどもが期待したからどうということではないが、一応期待を表明しておきます。