ハラ減った。
ふくろうでも食ってみるか。
と思いました。
さて、ふくろうはどんな味がするのでしょうか。みなさんはご存知ですか。
ふくろうは長じて母を食ってしまう不孝な鳥だといいます。古代のひとはそれゆえふくろうを悪み、
夏至磔之、而其字従鳥首在木上。
夏至これを磔す、而して其の字は鳥の首の木上に在るに従う。
夏至の日にこれを捕らえて木にはりつけて祀った。だから、その字「梟」は、鳥の首から上が木の上にあるすがたを象っているのである。
と「本草綱目」の釈名に書いてあるのですが、ほんとうだとオモシロすぎるので違うのでしょうね。
母を食ってしまう鳥である、というのは、ちょうど昨日登場した晋の陸機の「詩経疏」に
自関而西為梟為流離。其子適長大還食其母。故張奐云鶹栗食母。
関よりして西、梟と為し流離と為す。その子、適(ゆ)きて長大となれば還りてその母を食らう。故に張奐云う、「鶹栗(りゅうりつ)母を食らう」と。
函谷関より西の関中の地方では、ふくろうを「梟」(きゅう)といい、また「流離」(りゅうり)という。ふくろうの子が巣立って大きくなると、戻ってきてその母鳥を食ってしまうので、漢の識者・張奐が「ふくろうは母を食う」と言っているのである。
というのに拠る。
もちろん「流離」(りゅうり)と「鶹栗(りゅうりつ)」は同じ言葉。(「栗」と表記した文字は原文では「栗」の扁に「鳥」の旁)
陸機はさらにいう、母を食ってしまうのはナゼかというと、
其肉甚美。
その肉はなはだ美。
その肉はたいへん美味い。
からだそうです。
ああ、やっぱり美味いのですなあ。
またいう、
可為羹臛。
羹臛(こうかく)と為すべし。
スープにするといいよ。
と。「羹」「臛」はいずれも「あつもの」、温スープです。
ちなみに、ふくろうの「目の玉」は、
呑之、令人夜見鬼物。
これを呑めば、ひとをして夜に鬼物を見せしむ。
そのまま飲み込めば、そのひとは、夜の闇の中で霊的なものを見ることができるようになるのじゃ。
と、これは唐の陳蔵器の「本草拾遺」にある。
実生活上は不便になるかも知れぬが、これは食べたい。
わくわくしてきます。
よし、ふくろうを捕らえに行こう。
―――というわけで、わしは西の森にふくろうを捕らえに行った。
しかし、西の森にふくろうはおらず、代わりにハトを見かけたので、わしはハトに聞いてみた。
「これ、おまえはふくろうを見かけなかったか」
するとハトは答えた。(※「ハト」というだけで感情を害するひともいるかも知れませんが、これはゲンダイのことではございませんので、どうぞご寛恕ください。)
「ぽっぽー。ふくろうはもうこの森にはおりませぬ。昨日、おいらは、どこかに行こうとしているふくろうに逢うたのです。
おいらは彼に訊ねた。
子将安之。
子、いずくに之(ゆ)かんとす。
ふくろうさん、どこに行こうとしているのですか。
すると、ふくろうは答えた。
我将東徙。
我、東に徙(うつ)らんとす。
わしは、東の森に移ろうとしているのじゃ。
おいらは訊ねた。
何故。
何故ぞや。
一体どうなさったのですか?
ふくろうは答えた。
郷人皆悪我鳴、以故東徙。
郷人みな我が鳴くを悪む、故を以て東に徙(うつ)るなり。
まわりのひとは、みんなわしの鳴き声が気持ち悪いというのじゃ。だから、わしは東の森に行ってしまうのじゃよ。
そう言って羽ぱたぱたと発って行こうとする。
まことにオロカなこと、おいらは、
子能更鳴可矣。不能更鳴、東徙猶悪子之声。
子、よく鳴くを更うれば可なり。鳴くを更うあたわざれば、東に徙るもなお子の声を悪まん。
ふくろうさん、鳴き声を変えることができるならよろしいのですが・・・。鳴き声を変えられないなら、東に行ってもやはりあんたの声は気味悪がられるでしょう。
と教えてやったが、ふくろうには聴こえなかったのでしょう、ぱたぱたと東の森へ行ってしまったのです。
・・・・・というハトとふくろうの会話は、漢・劉向の撰「説苑・談叢篇」にある寓話です。
自分は正当に報われていない、不当な扱いを受けている、と周囲のせいにしようとすることは多いが、たいていの場合自分に責任があり、周囲の環境を変えたからといって成功するものではない、という譬えに使われる話である。
勉強になったでしょう。月曜の朝礼で使ってみてください。
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けれど、自分の鳴き声を変えることができるでしょうか。ハトは変えられるのか。変えられるなら苦労はないが、そうでなければふくろうのように漂泊のうちに孤絶の道を歩むしかない。
わしはふくろうに自分の似姿を見て、「ああ、ああ」と何度も嘆じながら帰途に着いたのであった。
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ということで、今回はふくろうを食べるのは断念しました。