わしのところにもこの間来たにゃあ・・・。
乾隆五十一年(1786)は丙午の歳であった。
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「丙」も「午」も火の力を表わす。そのせいであろうか、この年は江南地方はひどい日照りとなり、三月から七月まで一日たりとも雨が降らなかった。
田畑の害もあったが、年寄りには暑気がことのほか応え、わし(←梅渓・銭履園先生の自称)のおやじはこのとき六十四歳であったが、暑さに当たって腹下しを起こし、
医薬罔効、飲食不進者至四十日。
医薬効罔(な)く、飲食進まざること四十日に至る。
薬石の治療も効果無く、食べ物・飲み物を摂取できなくなって四十日にもなった。
本人もかなり弱気になったようで、ある日、枕頭のわしに向かって、
「冰(←履園先生の名)よ。昔、占い師に見てもらったところ、わしの寿命は七十と少しだと言われたものであった。しかし、この様子じゃ。占いなどあてにならぬものじゃのう」
とおっしゃり、わしも口では弱気になられるなよと申し上げたが、目頭が熱くなるのを抑えることができず、部屋から下がった後ひとりで涙を拭ったものであった。
ところが真夏のある晩の深夜のこと。
なにごとか、
異香満室、庭樹粛然。
異香室に満ち、庭樹粛然たり。
普段嗅ぎ慣れぬ不思議なにおいが家中にたちこめ、庭の木がひょうひょうと音を立てたのである。
うるさく鳴いていた虫の声も聞こえなくなった。わしは寝付こうとしていたときであったがどうも落ち着かず、灯をともして書を開いた。
しばらくすると、部屋の外で衣擦れの音がする。顔を上げると、床にあったはずのおやじがわしの部屋まで歩いてきたのであった。
「ち、父上・・・、大丈夫ですか」
と慌てて立ち上がり、手をとって部屋にお座りいただくと、おやじは意外としっかりした足取りでわしを押し止め、言う。
頃吾夢見十神人来。邀余行、余辞之、已首肯去。吾病其痊乎。
頃(さきごろ)、吾夢に十神人の来たるを見る。余を邀(むか)えて行かんとするに、余をこれを辞せば、すでに首肯して去りぬ。吾が病、それ痊(いえ)んか。
さきほど、わしはうつらうつらと夢を見ていたのじゃ。すると、そこへ「十人の方々」がお見えになって、わしを連れて行こうとなさる。わしがお断りすると、あの方々はうなずいて、去って行かれた。おそらくわしの病いは治るようじゃ。
おやじがそう言い終わったとき、また虫が鳴き始めた。
「な、何を言うておられるのか」
しかしおやじはわしの疑問には答えず、机の上の書の題を見て、
「おお、杜詩か。涼しくなったらわしも久しぶりで読み直してみるか」
と言って、笑った。
―――悪い夢をご覧になられたのか?
とそのときは思ったのだが、おやじはその日からだんだんと飲食をするようになり、腹の下りもおさまり、一月ほどすると全快してしまったのである。
なんとも不思議なことであったが、あの晩おやじが口にした「十人の方々」というのがどういう方々か、回復した後のおやじにわざわざ訊ねる気にもならなかったし、おやじの方からもその後、そのことについて何か触れたことも無かった。
ところが、乾隆六十年(1795)の秋の初め。おやじは前日までぴんぴんしておられたのだが、ある朝、
夜夢十神人復至。
夜、夢に十神人のまた至る。
「昨晩、夢の中に十人のあの方々がまたお見えになった」
と言い出した。
なんだか、目はこちらを向いているのだが、視線はわしではなく、わしの背後の遠くを見つめているようだ。
「父上、何をおっしゃっておられる? 「あの方々」とはどのような方か?」
と問うたが、おやじは朝の光の中に幻を見ていたのか、何かにおびえたように震え、
吾将殆矣。
吾まさに殆うからん。
わしはどうやらそろそろのようじゃな・・・。
と言った・・・。
・・・そのことばが最後のことばになってしまった。
おやじはそれから一月ほど床にあって、八月二十七日の未明に帰らぬ客となったのであるが、その間、起きているときも宙を見つめ続けているばかりで、わしや家族が何を語りかけても応えることが無かったのである。
それからもう二十年にもなり、わしも六十を越えた。いまだに「十神人」の正体はわからぬままだが、あるいはその方々はわしのもとにも間もなく訪れるのであろうか。
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これはいいハナシでしたね。久しぶりで爽快感で胸がすうっとした。銭梅渓先生「履園叢話」二十二より。
時が来たれば、わしらのもとにも誰かが来るはず。誰が来るのかどきどきしますね。ハーモニカ吹きの男かも。