平成22年1月26日(火)  目次へ  前回に戻る

ヨーロッパを思い出すとなつかしいものじゃ。

みなさんは明末の文人・湯顕祖、字・義仍(ぎじょう)というひとのことを知ってますか。その書堂を玉茗堂と称し、夢が結び合う男女の恋の物語である「牡丹亭」をはじめ、はかないまでのリリシズムに溢れた名高い四つの戯曲(すべて「夢」をテーマとするゆえ合わせて「玉茗堂四夢」と呼び習わされる)を書いた晩明を代表する文人である。

・・・が、今日はこのひとのお話ではございません。第一、文学史上の巨人である玉茗堂を話題にするにはわしのごときでは力が不足なので要するにできません。

今日のお話は、この玉茗堂の弟子であった李生という男の伝である。

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李生は名を至清、字を超無といい、浙江・江陰のひとである。

幼いころから才気があり、自分を恃むこと強く、羈がれることを嫌がった。十二歳のときには笈を負うて四方に遊び、各地で文名あるひとたちと交わったというのだから、早熟の才子である。

成人して郷里に帰ってきたときには、

遇里中児、輙嫚罵、或向人作驢鳴。

里中の児に遇えばすなわち嫚罵し、或いはひとに向かいて驢鳴を作す。

村の子どもに出会うと突然どなり散らし、あるときにはひとに向かって驢馬の鳴き真似をしてみせる。

ような「変なひと」になっておりました。

子どもたちは「うひゃあ」と逃げたかと思うと戻ってきて、「○ちがい李生、やーいやーい」と騒ぎ立てる。驢馬の鳴き真似をされたひとは

「な、なんでおまえはロバの真似をするのだ?」

と驚いた顔をする。

李生はにたりと笑って答える。

聊以代応対耳。

いささか以て代わりて応対するのみ。

(お前さんの相手にはロバがちょうどいいのだが、今ここにいないので、)ちょっと代わりに相手をしてやっただけだ。

郷里のひとたちは彼をたいへんいやがり、彼は追われるようにまた旅立った。ときに年二十、彼は二度と郷里に戻ることはなかったのである。

まず依余の町に流れてきて、山中に庵を結んで三年暮らしていた。このころは頭の毛を剃って僧侶のような格好をしていた。その後、髪を伸ばして俗人に戻ると商人に従って華北に行ってしまったらしい。

七年ほどしてまた江南に戻って来ると、南京に近い臨川の町の郊外にある玉茗堂のもとに転がり込み、居候を決めこんだのであった。

それから数年、李生は特に何を為すでもなく、髪もひげもぼさぼさで、酔って昼間から妓館で眠っていたから、玉茗堂・湯顕祖は大笑いしてこれをからかって曰く、

倒城太平橋

倒されし城ぞ、太平橋。

ぶっ倒れて横たわった(城砦のような)こいつは、太平橋となってひとが渡っても気づくまい。

太平橋は臨川の有名な橋である。

さてあるとき、李生、ある酒楼で杯を重ねるうちに、野暮な注文をつけて妓女たちを困らせていた土地の富豪に腹を立て、

酔後唾罵富人、若圏牢中養物、多蔵阿堵、為大盗積。

酔後、富人を唾罵し、「圏牢中に物を養い多く阿堵を蔵して、大盗のために積するがごとし」と。

酔って有力者に唾はきかけて罵っていう、

「おまえさんは、固くまもった土蔵の中で大切そうに「金」をたくさん貯めこんでいるが、それは盗賊のために集めているようなものではないか」

と。

「阿堵」(あと)とは六朝期の江南方言で「その物」というぐらいの意味の言葉だそうですが、あるひとが金銭を蔑んで「銭」と口にするのを嫌がり代わりに「阿堵」(そのもの)と呼んだので、逆に「阿堵」といえば「金銭」を指す言葉として使われる。

何にせよ、ただの酔っ払いのタワゴトであった。

が、しばらくして、この富豪の家に盗賊が押し入り、家人を殺して財物を掠めていった。

富豪はたまたま郊外に所有する農園に行っていた無事だったが、以前の李生のことばと照らし合わせて、彼が盗みに関連しているのではないかと疑い、県令に訴え出た。

県令は李生を捕縛し、その所持品を没収したところ、紙切れの大量に入った古ぼけた行李を一つ発見した。

「この中に盗賊団と連絡しあった文書が入っているのではないか」

と中を改めてみると、

書尺狼藉、所与往還、皆一時勝流。

書尺狼藉し、ともに往還するところ、みな一時の勝流なり。

書状が整理もされずに放り込まれていた。(「すわこそ・・・」と差出人を見ると、)そこに出てくる名前はすべて、当時詩文で名をなした有名人ばかりである。

華北に行っていたころに李生はこれらのひとたちと交際があり、彼らとねんごろな書状を交していたのだ。

県令は憮然として引き立てられた李生の冠を指差すと、

此物戴吾頭、不久矣。

この物、吾が頭に戴くも久しからざるなり。

この冠をわしの頭にかぶっても、すぐに脱げてしまうことであろうな。

文章の能力の秀で、自分のようなものには及びもつかないことを妬んだのである。

そして激しいゴウモンを加えさせた。

玉茗堂が知合いを総動員して保釈運動を行い、都の文化人たちからも李生を弁護する書状が届いたというが、李生は獄中から

飛書賦詩、唾罵県令、富人、蜚語間入。

書を飛ばし詩を賦して県令・富人を唾罵し、蜚語間入す。

あちこちに手紙を出し、詩歌を作り、その中で県令と富豪を罵しり、その悪事のうわさを書き込んだ。

これは逆効果であった。県令は無実であったときの反動を恐れ、有罪・無罪の明らかにならぬように、激しい取調べの間に死んだこととするため、ことさらに殴打してついになぶり殺してしまったのである。

多くの文化人が残念がって、ともに嘆き悲しんだことであった。

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「列朝詩集小伝」丁集中より。

めんどくさい被疑者を取り調べ中に死なせてしまうのは当時の県令の常套手段で、証拠不十分だったり有力者につながりがあって無罪になってしまいそうな極悪人を合法的に罰してしまう方法でもありました。なにしろ罪刑法定主義など遠い遠い未来の話(ゲンダイでもまだだという噂さえ・・・)のチュウゴクのことでございます。

ところで、わしは、ここでふと「タンホイザー伝説」を思い出し、にやにやしてしまったものである。

―――タンホイザーは丈高く声清らなるミンネジンガー(騎士階級の詩人)で、エリザベトという許婚者があったが、約束された純潔の恋愛と不足のない幸福な未来に満足できず、故郷を出て身を隠し、七年の間行方が知られなかった

やがて七年を経て帰ってきたタンホイザーには暗い翳があった。彼はこの七年の間、地上の果て、深い霧に閉ざされた谷間のヴェヌスの館に迷い込み、豊満な女主人ヴェヌスとともに、ありとあらゆる肉の歓びを味わっていたのだという。

ある朝、霧の間から日の光を目にして、ふとその生活に寂寥を覚え、自らの求めていたものがここには無いと感じた。そして、女主人の哀願を振り捨てて故郷に帰ってきたのだ。

しかし、彼はここで人から、エリザベトが彼の帰りを待ちながら清らかな体のまま死に、もう何年にもなっていることを知る。

彼は慟哭し、己れの罪の赦しを乞うて諸方の教会に詣でたが、あまりの肉の罪にどの司教も尻ごみして彼に赦しを与えなかった。

タンホイザーは絶望とともに苦行僧の一行に加わり、身を痛めつけながら長い巡礼の末ローマに着いて、みめぐみ深き教皇のもとに身を投げ出した。時の教皇はウルバヌス四世であったと伝わる。

教皇はタンホイザーの懺悔を聴き、やはりその罪の深さに驚愕して、自らの手にした堅い樫の杖を指差して告ぐ、

「見よ、罪の子よ。枯れた樫の枝から作られ、何代もの教皇に伝えられてきたこの古い杖を。この杖に再び花咲くことなし。おまえの罪も赦されることはないであろう」

と。

「がびょ〜〜ん。そ、そうなのですかあ・・・」

タンホイザーは涙滂沱と流しつつ、足を引きずって再びさすらいの旅に出た。

しかるに、数日後、ウルバヌス四世は朝の勤行に立たんとして驚いた。手にした教皇杖に、この朝一輪の小さな花が咲いていたのだ。けだし、タンホイザーの罪は、おとめエリザベトが自らの死とともに贖うていたのである。

教皇は

「かの罪びとの罪は、いと気高きお方によって既に赦されていたのじゃ」

と大いに後悔して、急ぎ諸方に使いを遣わして旅人の行方を尋ねさせたが、その行方は杳然と知られなかった。

ある使いの者の得た噂では、その旅人らしき丈高き男は、よろめくように地上の果て、深い霧に閉ざされたヴェヌスの谷にさまよい入って行ったとも言う。

・・・・・以上。

の、下線部の身を隠していた間、タンホイザーは肉の歓びに浸っていた、というのに、李生は華北で文人たちと交わっていただけだ、とは、残念なことであったなあ。

 

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