天宝十四載(755年)のことです。春のうらうらとした時節、一人の若者が長安から東へ帰ろうとしていた。
そこそこ整った貴公子然とした顔立ちなのだが、どういう悲しみがあるのか、どよん、と絶望的な顔をしている。
彼は洛陽近くの少陵の名族・杜氏の青年――いや、まだ少年といっていい幼さを残す杜勤という若者であった。
彼は、この春に行われた科挙試験に落ちたのです。
そこで身も世もないように絶望しているらしい。
その若者の傍にひとり、中年のごま塩頭の男がいた。
これはなかなか渋めの頬のこけた男である。眼光も炯炯とし、腹にも何か貯えてあるような、決して何事の為す無しに老い行くたぐいのひとでは無いと見えたが、その身に着ている衣は、決して豊かでない士人のそれであった。よく見ると鼻の形など、若者と不思議なほど似ている。
その中年の男は、悲しみやつれた風情の若者の肩をぽんと叩いて、長安城の東郊外の川べりにある小さな酒屋にともに入って行った。そして若ものを促がして窗際の卓につくと、昼間からいっぱいやろうというのだろう、酒瓶を――値を聞いて決して高くないことを確認してから――二本頼んだ。
この中年の男の方は、この青年の伯父(史実としては父の従兄弟)に当りまして、このひとも実は昔、同様に科挙試験に落第したことがある。おかげでまだ定職も無く、あちこちで雇われて幕僚をしながら生活している。同じ少陵・杜氏の出で、名を甫、字を子美というひとである。
後に
「東洋の超絶大詩人!」
「政治思想も進歩的!」
「人格も最高!」
「家族愛も強いのです!」
ということになりました杜甫そのひとである。
長安の街の外れで、杜甫おじさんが帰郷する甥の杜勤を慰めて、送別したときのことば。
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おまえも知っているように、晋の陸機は二十歳にして名高い文賦という大作を書いたが、おまえはそれより若いのにより美しい文章を作りよる。
また、まだ幼いころから、流行の草書を書かせればたいへん素早く、世間のそこらのやつとは違うなあ、と親戚一同楽しみにしていた。
華やぐような美しい白馬は、三四歳(の大人)ともなれば赤い汗を流し千里を行くようになる。
誇り高い鷹は、巣から旅立って風切り羽をそびやかして青い雲の彼方にも昇り行く。
おまえの文章は長江の源から三峡を通って流れてくるようじゃ。
おまえの筆は将軍の陣のように千人もの雑兵どもをなぎ払ってしまうようじゃ。
この間、おまえはまだ十七歳だというのに、天子の出だす問題に第一等で答えようとした。
普段の力を出せば百歩はなれたところから柳の葉を射抜くことができたという弓の名人のように、失敗することは無かっただろうけれど、今回は霜を踏んでひづめを滑らせてしまった。
ちょっとした失敗をしただけなのだ。
たまたま今回は秀でた穂として抜かれなかったが、いずれはおまえも収穫として収められることになるであろう。
おまえの使う言葉は美しく、唾はすべて珠になるほどだからな。
おまえのおじきは見たとおり、髪が漆を塗ったように色が抜けて(白くなって)きているが、こんなことになるまでにはまだまだ時間はたっぷりあるのだぞ。
さて―――。
杜甫おじさんはそこそこ安酒も回ってきたのでありましょう、このあたりから謳い口調となってきた。
春光潭沱秦東亭、 春の光は潭沱(たんだ)たり、秦の東亭、
渚蒲芽白水荇青。 渚の蒲の芽は白くして水荇(すいこう)は青し。
風吹客衣日杲杲、 風は客衣を吹いて日は杲々、
樹攪離思花冥冥。 樹は離るる思いを攪(みだ)して花は冥々。
酒尽沙頭雙玉瓶、 酒は尽きたり、沙頭の雙玉瓶、
衆賓皆酔我独醒。 衆賓はみな酔うも我は独り醒む。
乃知貧賤別更苦、 すなわち知る貧賤の別れはさらに苦しきを、
呑声躑躅涕涙零。 声を呑みて躑躅(てきちょく)として涕涙(ているい)零(こぼ)る。
春の光はゆらゆらと 水面にきらきらきらめけり。ここは長安城外の東郊亭だ。
渚に白くガマの芽は吹き、浮き草みどりに目にしみる。
やわらかな風はおまえの旅の衣を吹きかえし、うらうらの春の日は明るい。
葉ずれの音を聞けばおまえとわかれるわしの心は乱れ、暗がりに咲いている花も揺れておる。
おお。水際の砂の上に置いた二本の玉のカメの中、安酒も尽きてしまったか。
亭に遊ぶひとびとはみな気持ちよく酔うているのに、わしだけひとり酔いきることができないぞ。なぜか。
地位も富も無いわしには、親しいおまえと別れることが、世間のひとの別れよりもつらいのだろうかね。
もう歌う声も出ぬ。歩き出す歩みもおろおろ、涙と鼻水がしとどに零れ落ちるばかりだ。
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杜甫「酔歌行」(ほろ酔い歌)。
そろそろ試験に落ちた若者が世間に出回ってくるころだと思いますので、おじさんたちが慰めねばならないときの参考にでもなればと掲げておくのである。就職無い若者がこれで納得して「よし、がんばるぞ」と思うかどうかは保証できませんケド。
杜甫は、生きている間は田舎とはいえ貴族出身の、文章はそこそこに巧くて権力者にもそこそこに取り入るが、あんまりぱっとしない、というおじさんだったわけで、千年経って皇帝(清の乾隆帝)に自分の選集を選んでもらったり、さらに数百年してから紅いひとたちからも「人民詩人」と呼ばれるとは思ってもみなかったことでしょう。彼の詩は、「悲壮」だとか「詩がそのまま歴史的記述になっている」とかすばらしいものとして評するのがデフォになっていますが、実は「苦笑いをしながら飾り立てた文字を綴っている」ときに一番輝くように思える。
・・・などと思ったことを思ったとおり書いていると杜甫ファソに見つかってフクロにされるといけませんので、今日はこのあたりにいたします。
ちなみに杜甫が甥っ子を見送ったまさにこの年の秋、安禄山の大乱が勃発するのであります。まだそこまでひどくはなかろう、と思っているときには社会の崩壊がもう目の前に迫っている・・・のかも知れませんよ。