間もなくお盆ですので、お盆的なるお話を。
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浙江・松江の銭なにがしというひと、官に就いて公正の名あり、また、ひとに善を施して評判高かった。
しかるに子供に恵まれず、夫人とともに天童寺に赴いて子を授からんことを一心に祈った。
長老、その姿を見てその祈るところを聞き、
「ようく祈りなされ。必ずや効験ありましょうほどに」
と諭して、その晩、衆僧を一堂に集め、仏像に香華を捧げて言う、
「銭居士(「居士」は出家していない仏教信者をいう)は、すでに功徳を、その報応を受けてしかるべきほどに積んでおる。
誰願随銭居士往。
誰か銭居士に随いて往くを願うや。
誰か、銭さんのところに行こうという者はおらんか。」
衆僧押し黙ったまま答える者が無かったが、飯炊き係の老僧が立ち上がり、
老矣。願往。
老いたり。往くを願う。
わしはもう年でござる。わしが行かせていただきましょう。
と願い出た。
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銭某、夫婦で寺から戻るとしばらくして、夫人が懐妊した。
やがて月足りて男の子が生まれた。
名を鼎瑞、長じて字・宝分といい、詩文を作れば華麗にして長江下流域にその名を鳴り響かせ、康煕丙午年(1666)に郷試に合格して中書舎人に任ぜられたが、官にあるうちに父の喪に遇い帰郷した。戊午年(1678)、その博学にして詞に精しきを以て再度官に推薦されたが、そのときは母親の服喪中であることを理由に赴任しなかった。
彼は文名赫々たるものがあったが、俗事にはきわめて恬淡としていた。薦められて娶った妻との間に跡取りの息子ひとりもうけると、男女のことにもあまり興を起こさぬようであり、家の財産についても、父から受け継いだとおりに保持はしていたが、殖やそうと努める風情は無かった。
一日、方与客座斎中、有僧至門。
一日、まさに客と斎中に座するに、僧の門に至るあり。
あるひ、ちょうどお客と書斎の中で対座していたとき、家の者が部屋に来て、「門にお坊さんが一人お見えになりました」と告げた。
その僧侶、
「銭舎人どのはご在宅か」
と問い、来客中であることを告げると、
「天童寺からまいった。特に面会の必要はござらぬ。これを・・・」
と厳重に封緘された封書を差し出し、舎人本人が開けるように念を押すと、すぐに背中を向けて出て行った。
「天童寺は先代のときから縁浅からぬお寺。どうぞお茶でも・・・」
と家人が門を出て声をかけたときには、既にその僧侶の後ろ姿は一里以上(400〜500メートル)も先にあり、次に瞬きしたときにはもう見えなくなっていたという。
客人の前で、
舎人啓視之、殊不駭訝。
舎人これを啓視するに、ことに駭訝せず。
銭舎人は封を開いて中を見たが、とくに驚いたり不思議がったりするようでもなかった。
ただ、
倉卒奈何。
倉卒なるをいかんせん。
こんなに急とは、困ったことじゃのう。
と呟き、客には「是非明日まで当家にお泊まりあられたい」と依頼するとともに、家人を通じて親戚や他の友人に
「明日の朝集ってほしい」
旨伝えて回った。
翌朝、ひとびとが集まると、にこやかに別れの言葉を述べ、筆を求めて一篇の詩を書く。
来従白雲来、 来たるは白雲の来たるに従い、
去従白雲去。 去るは白雲の去るに従う。
笑指天童山、 笑って指す、天童山
是我旧遊処。 これ我が旧(もと)遊びし処。
来たときは白雲とともに来たのであった。
去るときも白雲とともに去ることにする。
うほほ、あすこに天童の山が見えるであろう、
あすこはわしが以前いたところである。
書き終えると
微笑而逝。
微笑して逝けり。
わずかに微笑んで、死んだ。
なお、机に僧侶の持ってきた手紙が遺されていたので、家人これを開いて見たところ、封中から出てきた書状はただの白紙であったという。
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「池北偶談」巻二十五より。白雲とともに信州に去ります。