平成21年 8月 6日(木)  目次へ  昨日に戻る

「池北偶談」巻二十五より。

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清のはじめごろ。

張太室、字・松麓というひと、試験を受けるために順治十七年(1660)に上京し、北京・長椿寺という仏寺に一室を借りて滞在していた。

この寺に一人の老僧があった。その容貌、頭がとんがり、眼窩は落ち窪んで眉に隠れ、しわだらけの額など、どれほどの年齢であるか想像さえできないほどであった。

この僧、ある日、張に

「おまえさんはどこからお見えになられたのじゃ」

と問うた。

張、

「河南の鹿邑というところでございます」

と答えると、僧は、

「それでは夏邑に近いのではないかのう」

と言うた。

「はい、夏邑までは百里少し(40キロぐらい)でしょうか」

「そうか・・・では、彭嵩蘿どのをご存知かな。かの方はまだお元気であろうか」

「彭嵩蘿・・・、もしや御史侍郎の?」

「そうじゃそうじゃ、侍御の彭嵩蘿どのじゃ」

張は答えた。

此百年前人也。

これ、百年前人なり。

その方はかれこれ百年前、まだ前代の明朝の盛んなころのひとでございます。

「わたしどもの郷里では大いに出世された方、として高名ですが、生きておられるはずがございますまい」

「そ、そうか・・・」

老僧、しばらくして、

「そうであった、侍御どのには息子がおられたが、もう大きくなっておられるのじゃろうなあ」

「その方もお役人になられて郷里では高名な方・・・八十いくつかまで生きられましたが、明の末にお亡くなりになってから、もう長いはずでございますぞ」

「そ、そうか・・・」

僧は押し黙ったが、やがてすすり泣きをはじめた。

「そうじゃろうのう・・・

昔侍御与貧道為方外交、其公子方在襁褓、寄籍釈氏、為我弟子。曾幾何時、皆成古人。

むかし、侍御、貧道と方外の交わりを為すに、その公子まさに襁褓(きょうほう)に在りて、籍を釈氏に寄せ、我が弟子と為す。かつて幾何の時ぞ、みな古人と成りぬ。

「貧道」(ひんどう)は僧侶等宗教者の自称。「方外の交わり」とは、一般社会に暮らすひとがその社会の約束に縛られない世界のひとと付き合うことをいい、ここではお役人で儒者の彭嵩蘿が仏教僧侶と親しく付き合っていたことをいうのである。「襁褓」(きょうほう)はおむつ。

むかし、侍御どのとわしは職業や思想を超えて親しく交わっておったが、そのころ、その息子はまだ生まれたばかりでおむつの中におった。侍御どのはその息子を後々の福徳のため、お寺に預けた形にしたい、と言われて、わしの弟子という登録をしたものじゃった。それからどれほどのときが経ったというのか、いずれもむかしのひとになってしまったのじゃなあ・・・」

それから張を自分が世話をしている小さな中庭に連れて行った。

「これが、彭侍御が自ら植えた牡丹じゃ」

と指す先を見るに、

高六七尺、大十五囲。

高さ六七尺、大いさは十五囲あり。

高さは二メートルほど、こんもりと茂って、腕を広げた十五人で囲むほどの広さがあった。

張は、以前に河南の段凝之の邸宅で六十年ものの牡丹を見たことがあるが、それさえこの牡丹に比べれば半分の広がりも無い。

「一体どれほどの年月が経っているものでしょうか・・・百年では利きますまいな」

と問うたのだが、僧曰く、

忘之矣。

これを忘れしなり。

すまん、もう忘れてしまったわい。

とのことであった。

張はまた北京滞在中に、骨董品店で蘇州の張翁というひとと遇ったのだそうだ。

このひとは曾大父というひとと付き合いがあったそうで、曾氏の日常をありありと説明してくれたのだが、このひとも明のひとであり、それから計算すると張翁は百五六十歳を超えていることになるのであった。

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清の初めのころは長寿のひとが多かったのですな。ちなみに張太室はこんなひとたちに邪魔されたからか試験には受からなかった模様。

 

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