江西・上饒県の徐氏に二人の娘があった。
姉の方は同郷の王秀才に嫁したが、夫の他郷に出ていたのをいいことに、毎日家の中にいながら化粧をして、若い下男とひそかに通じていたらしい。
その私通はさておき、三十にならぬうちに病を得て重篤になった。
高熱に苦しみながら、枕元の家人に、その嫁するときに持ってきた鏡を目線で指して次のように言うた。
我病無活理、安能恋鏡。姨姨要此物、可持以送之、表我意念。
我が病活理無し、いずくんぞよく鏡を恋んや。姨姨(イイ)この物を要む、持してこれを送り、我が意念を表すべし。
わたしの病いはもう治らないでしょう。もうあの鏡を惜しむこともできませんね。妹がずっとこの鏡を欲しがっていましたから、これをあの子に送ってあげて、わたしのお別れの気持ちを表したい。
そう言うて、間もなくして死んだ。
妹は三十里(十数キロ)離れた別の村に嫁いでいたが、姉の死を聞いて急いで葬儀にやってきた。
営仏供、因留駐数日。
仏供を営み、因りて留駐すること数日。
仏教式の葬儀を行い、数日姉の婚家に泊まった。
やがて、帰宅することになったとき、
姉家述亡者之言、付以鏡。
姉家、亡者の言を述べて、付するに鏡を以てす。
姉の家人は死者の遺言を告げ、妹に鏡を持たせて帰らせた。
妹は姉の自分を思う心を思い、嗚咽しながら、鏡とともに自宅に帰ったのであった。
そして・・・。
家に着くと妹は帰宅の挨拶をすませて鏡を携えて自室に入って行ったのだが、はじめすすり泣きの声の聞こえていたその部屋から、しばらくすると笑いさざめく声を聞こえてきたのである。
家人がどうしたことかと覗きに行くと、妹は、鏡の前で、
時日色已晩、忽施脂粉塗沢、開箱易新衣。
時に日色すでに晩なるに、忽ち脂粉を施して塗沢し、箱を開きて新衣に易えたり。
時刻はすでに夕刻だというのに、顔に口紅と白粉をぴかぴかに塗って、衣装箱を開けて新しいおしゃれな服を着ようとしていた。
家人、驚いて
「奥様、どうなさったのですか」
と問うと、
姐姐見在鏡子里喚我、須著随他去。
姐姐(チェチェ)鏡子里に在りて我を喚ぶを見る、他に著随して去るべきなり。
「おねえさまが鏡の中からあたしを呼んでいるのです。彼女に従って、あちらに行かねばならないのよ」
と言うのである。
家人らすぐに鏡を見てみたが、そのような人影は見えなかった。
しかし、妹は、
対之笑語、惘然如狂痴。装才畢、覚頭眩、頃刻而亡。
これに対して笑語し、惘然として狂痴するが如し。装わずかに畢り、頭眩を覚えて頃刻にして亡す。
鏡を見ながら笑い、語りかけ、まわりのことはどうでもいいようで、狂い痴れたようであった。そして、化粧を終え、新しい服を着終えると、頭がくらくらすると言い、ほとんど時を置かずに亡くなった。
時に南宋の慶元元年(1195)四月であったという。
ちなみに、姉の家の方でも同じころ、事件が起こっていた。
かねてより姉と通じているのではないかと噂されたいた若い下男が、深夜、姉の葬られた墓の前に倒れていたのである。
見かけた村人が助け起こすと、ぼそぼそと、
娘子喚我。
娘子、我を喚べり。
おくさまが、わたしをお呼びになるのです・・・。
と言い、新しい墓の方に這って近寄って行って、途中でそのまま力尽きたように動かなくなった。
ひとを呼んで抱きかかえ、その家まで連れてきたが、
死矣。
死せり。
もう死んでいた。
以上、同地の読書人・鄭著必(名前は彰)の口述による。
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だそうです。連れて行ったのか、付いて行ったのか。
洪容斎大先生の「夷堅支志」丁巻六より。