健康上の理由にてしばらく更新できそうにない。
多年負屋一蝸牛、 多年屋を負う一蝸牛、
化做蛞蝓得自由。 化して蛞蝓と做(な)りて自由を得たり。
火宅最惶涎沫尽、 火宅最も惶(おそ)る、涎沫の尽きんことを、
偶尋法雨入林丘。 たまたま法雨を尋ねて林丘に入る。
「蝸牛」(カギュウ)はカタツムリで、「蛞蝓」(カツユ)はナメクジ。
尾張藩士・内藤某は自ら右手の中指を斬りおとし、
――もはや刀の柄握り難し。
と言うて禄を返し、髪を剃って丈草法師と名を替えて、近江湖南の寺に隠れ住んだ。
そのときに口ずさんだ詩だということである。
長いこと一軒の家を背中に背負ってうごめいてきた。まるでカタツムリのようであった。
変化して、背中に家を背負っていないナメクジになることができました。もう自由なのだ。
この世界で恐ろしいのは(カタツムリでもナメクジでも)ぬめぬめのよだれのような体液が乾いてしまうことであるが、
このたび仏法のありがたい雨が降っていたので、それにしっとりと濡れようと深山の中のお寺に入り込んだのだ。
というのである。
カタツムリとナメクジの比喩が秀逸ではあるまいか。
また同じとき、
凉(すヾ)かぜにき(消)ゆるを雲のやどりかな
とも。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
伴蒿蹊「近世畸人伝」巻之五より。わしも。