6月1日より続く。
・・・巨大な関門の下まで至りますと、そこには多くの修道者たちが集っていて、わいわいと騒いでいた。
みな、この巨大な関門を通ろうとして、閉ざされた扉を通り抜ける方法がわからぬ者たちだと思われた。
「おお、みなさん通り抜け方がわからないのですなあ」
と側にいた一人に声をかけると、その若い修道者は、
「わからない? そんなことは無いよ。わかっているのだが、ボクには通り抜ける必要があると思えない」
とおっしゃられ、
「だって、ここが真実の世界だからね」
と自信たっぷりにおっしゃった。
「はあ・・・」
――なんだ、バカか。
別の方に
「あなたは関門を通り抜ける気はないのですか」
と訊ねると、これは若い女修道者で、
「なにをいっているのかしら、このおじさんは」
とおっしゃられた。
「どこに関門があるのかしら? わたしはどんどん前に進んでいるではありませんか。まあ、あなたなんかからしたら、世界のあらゆる場所は関門でしょうけどね、ひとびとと語り合ったり協力しあったり愛し合ったりなさられないのですからね」
と言うのである。
――オロカなひともいるものだね。
わたしは相手にするのを止めて関門を見上げる。
巨大な関門の屋上近くに、これも巨大な題額があり、
妄想関
と読めた。
おりしもその題額の近くの窓から、ひとりの白髪白髭の老人が顔を覘かせた。
――あれ? どこかで薬を探していたひとみたいなひとだなあ・・・。
と思って見上げていると、老人の背後と思しき楼内より
どよーん、どよーん、どよーん・・・
と低い鐘の音が響きわたり、その余韻いまだ消えぬうちに、老人が、そこいらじゅうに聞こえる声で群集に話しかけてきた。
「おお、修道者たちよ。何を惑うて左右に走り回っているのか。
恍惚之中尋有象、杳冥之内覓真情。
恍惚の中に有象を尋ね、杳冥の内に真情を覓(もと)む。
ぼんやりとした中に形ある確かなものを探そうとし、暗くはるかなところにまことの思いを求めているのではないか。」
わしにはその呼びかけはよく聞こえたのだが、群れ集う修道者のうち半分ぐらいのひとたちには、不思議なことにその声が聞こえないようであった。
声の聞こえた者たちは関門の屋上近くのかの老人を見やった。
声の聞こえないらしい者たちは、
「何を立ち止まっているのよ、あなたたち」
「ばかじゃないか、上の方をぼんやり見て。何もないのに」
「邪魔なのよ、使えないひとたちね」
とわたしらを押しのけ、迷惑そうな顔をしながら、忙しく動いている。
老人はさらに続けた。
有無従此自相入、未見如何想得成。
有無これより自ずから相入り、いまだ見ざるに如何ぞ想い成し得ん。
「何かが本当に有るか無いか、それは(どこかに求めるのではなく、おまえの居る)その場所からおのずと明かになることであり、いまだはっきりと見てもいないものをどうしてイメージすることができるだろうか。
今、そこにあるものをきちんと知ること。そこから始めねばならん。
道必真知実行、非空空妄想而可得也。
道は必ず真知実行すべく、空々に妄想して得べきにはあらざるなり。
タオは必ず、本当に知り、実際に行うべきものである。妄りに空想して得られるものではないのじゃ。」
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老人の言葉はなお続くのですが、社会のもろもろの事情により、今日はここまで。清・悟元道士・劉一明「通関文」より。