無題

 

平成21年 6月 2日(火)  目次へ  昨日に戻る

先々週の5月19日まで、広東を中心とする陳白沙の学統を説いたのであった。

今週からは、河東の薛敬軒たちのグループに話が移ります。ちなみに「河東」というのは、「黄河の東」の意で、黄河彎曲部の東側である山西地方をいう。このグループは、王陽明の先駆とされる陳白沙学派と違い、宋学=朱子学を主とした保守的な学者が多い。

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薛瑄、字・徳温は山西の河津のひとで、敬軒と号した。

先生の母親は先生を身ごもっていたとき、紫の衣を着たひとが挨拶にくる夢を見て陣痛を起こして先生を分娩したという。

祖父は自室で先生の産声を聞いて、

非常児也。

常の児にあらず。

普通のこどもではなさそうじゃな。

と呟いた。

そのとき、産室でお産の手伝いをしていた女たちは、生まれた先生を見て驚いていた。

膚理如水晶、五臓皆見。

膚理は水晶の如く、五臓みな見ゆ。

肌は水晶のように透き通っていて、内臓がすべて外から見えた。

のである。

驚きながらも産湯を使わせているうちに、ようやく皮膚にも色がつきまして、透明ではなくなったのであった。

長じて

書史過目成誦。

書史、目を過ぐれば誦を成す。

経典や史書を読むに、一覧すればすぐ暗誦できた。

といういわゆる「写真的記憶」能力を発揮し、将来、科挙試験に優秀な成績で合格することを嘱目された。

しかし、父親はそのことを快く思わず、科挙受験のための学問でなく人間性を磨く学問をさせようと山東・高密の魏希文らについて学ばせた。

少年時代の敬軒はここで朱子学に眼を開かされ、

此問学正路也。

これ問学の正路なり。

「これは学を訪ねるための正しい道でありますねー」

と感嘆して、それまでの科挙の学問を捨て、一心に朱子学を学んだのであった。(以下、続く)

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今日はここまでにします。「明儒学案」巻七より。

透き通った子供、なんとなくコワい。ただし解剖学的には腑分けもせずに医学的見地が増大することになり、便利な体であるともいえよう。

 

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