もうすぐクビでわん。

 

平成21年 5月19日(火)  目次へ  昨日に戻る

5月12日の続き。

●謝祐

字・天錫は広州の南海のひと。

早くから陳白沙の弟子となり、名誉や利益に関わることとは関係を断って葵山の麓に小屋を築いて暮らしていたが、その生活は貧しく、

并日而食、襪不掩脛。

并日にして食らい、襪(べつ)は脛を掩わず。

二日に一回しか食事できず、靴下は(繕いを重ねて短くなり)脛まで届かなくなったものを穿いていた。

広東ですから靴下が短くても寒くは無いのかも知れんが、二日に一回はハラが減りますなあ。

しかし、そういう生活こそ彼の求めるところであった。

かつて詩を作っていう、

生従何処来、 何れの処より生まれ来たり、

化従何処来。 何れの処より化し来たるか。

化化与生生、 化化と生生、  

便是真元処。 すなわちこれ、真元処なり。

 どこから生まれきて、死んでいくのか。

 どこから現われきて、消えていくのか。

 現われては変化していき、生まれては生きて死に行く、

 そのことこそが本当の根っこのところじゃ。

その生活と詩風はどうも仏法の教えに流れていたところがあり、白沙の思想とは違うところもあったようである。

何廷矩

字・時振は広州の番禺(ばんぐう)のひと。

郡の学校の学生となり、そのころ陳白沙を知ってそのもとに参じた。やがてその影響を受けて科挙の学問を捨ててしまい、広州の学使の胡栄というひと、その人物を見込んで試験を受けるよう強く求めたが、「良友書」(良き友より至った書)という詩を作って、

開緘読三四、  緘を開きて読むこと三四、

亦足破煩汚。  また煩汚を破るに足る。

丈夫立万仞、  丈夫、万仞に立ち、

敢受尋尺拘。  あえて尋尺の拘を受けんや。

 封を開いて三四行を読みましたところ、

 それだけでも煩わしく汚れた世俗のイヤなことはビリビリと破れてしまったぞ。(良き友よ、お前さんの言うとおりだ。)

 立派な男の子であるこのわしらは、万仞(数万メートル)もの高いところに立とうというのだ。

 どうして、一尋(数メートル)や一尺(数十センチメートル)のちっぽけなことに拘ずらわっていられようか。

と述べて、とうとう受験しなかった。役人としての生活を「尋尺の拘」と喝破して自由人たることを求めたのである。

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いずれも「明儒学案」巻六より。

 

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