にょろにょろ。
昨日の続き。
牛はなかなか話し上手、聞き上手で、薛家の最近のことなどには全く触れなかったが、自分の過去の見聞を話し、あるいは李の生い立ちなどを訊ね、もともとは無口な李も少しは受け答えするうちに、ずいぶん夜も更けた。
と・・・、
しゃりん。
何かが鳴った。
しゃりん。しゃりん。
李はあたりを見回し、特に二人のほかに誰もいないのを確かめて牛の方を見たが、牛は落ち着いたもので、指をくちびるに当てて、声を出すなと合図した。
李が頷くと、牛はくちびるに当てていた指をはずし、その指で「お客」の席を差した。
そちらを見ろ、というのである。
李はそちらに目をやって、・・・さすがに一瞬は目を疑った。
席の上にあった銅の鈴が、ひとりでに持ち上がり、
しゃりん。
しゃりん。
と鳴りながら、
去地尺余、如人携持、鳴振而去、久乃不聞。
地を去ること尺余、人の携持するが如く、鳴振して去り、久しくしてすなわち聞こえず。
地面から一尺余りのところに浮き上がり、そして、まるで(背丈の小さい)ひとが持っていくかのように振られながら音を立て、ゆっくりと堂から出て行った。しばらくは遠ざかって行く鈴の音が聞こえていたが、やがてそれも聞こえなくなってしまった。
李、茫然としていたが、音が聞こえなくなると、
「あれが「お客さま」ですかな?」
とかすれた声で訊ねた。
牛は、
「いや」
とかぶりを振り、
「あれはお客さんをお迎えに行ったのじゃ」
と言って、にこりと笑った。
「まあ、とにかくお待ちなされ」
どれほど待ったか。
「おお、お迎えしてきたようですぞ」
牛が口にするとほとんど同時に、李の耳にも
しゃりん。
という鈴の音がかすかに聞こえた。
しゃりん。
しゃりん。
鈴の音は段々と近づいてきた。
鐸声自南来、俄頃入門。
鐸声南より来たり、俄頃入門す。
鈴の声は南の方から近づいてきて、どうやら門から入ってきたようだ。
と、李はにわかに
如負氷雪、毛髪尽植。
氷雪を負うが如く、毛髪ことごとく植せり。
氷雪を背中に背負ったかのような寒気を感じ、髪の毛がすべて立ち上がるほど怖気を奮った。
鈴が帰ってきて、もとの席上に戻った。
とともに、なにものか、が、部屋に入ってきたのである。
そのとき、牛は手にしていた払子を机の上に立て、「お客さん」の席の方に向かって口を開いた。その語調、さっきまでの砕けた様子は無く、厳しくかつ険しい。まるで裁判官が訊問するようである。
汝謀殺夫、死実其分、得不棄市、乃大幸也。安得更為祟肢ネ擾其家。
汝、夫を謀殺せんとす、死するも実に其の分、棄市されざるを得る、すなわち大いに幸なり。いずくんぞ得て更に祟獅為してその家を擾するや。
お前は、夫を殺そうと計ったのではないか。死を与えられたのは当然のこと、権力によって厳罰に処せられて刑場で無残に斬り殺されなかっただけでも大いなる幸いであったというべきである。どうして、さらにたたりを為してこの家を騒がせるのか。
どん。
何物かが堂の扉にぶつかる音がした。
が、牛は気にも止めず、
「わしは、天帝に請うておまえを石室中に閉じ込めることもできるのじゃぞ。わかっているであろう」
と厳かに言うた。
しばらく沈黙があった。
沈黙の後、牛は少し笑い、言うた。
「わかった。
如止要冠珥袿襦之類、翌日当与汝。
ただ冠珥袿襦の類を要むるに止まらば、翌日まさに汝に与うるべし。
髪飾り・耳飾り、部屋着・肌着の類が欲しいのであれば、明日、お前に与えるようにしよう。」
それからしばらく、また沈黙していたが、やがて
「お前の言いたいことはすべてわかった。それは別に天帝に申し届けるであろう。お前はもう、自分の行くべきところへ行くがよい」
と教え諭すように言い、ひとりで頷くと、突然、
ぱん
と手を拍った。
その音で李、
「あ」
とまるで夢から覚めたときのように声を出すと、牛はその方に向き直って、
「終わりました。明日、少しやらねばならぬことがありますが、もう大丈夫でござる」
と言うのであった。
「は、はあ・・・。ところで、道士、さきほど「汝、夫を謀殺せんとす」とおっしゃっておられたが、あれは一体・・・?」
「ああ」
牛はとぼけたように生返事をしたが、その後で少し真顔になって李の方を見つめ、
「だって、そうでしょう。奥様もそう言っておられましたよ」
と言い、
「いや、言わぬ方がよかったかな・・・」
と一人つぶやいて苦笑したのであった。
・・・翌日、牛道士は薛家の者に指図して、亡くなった薛の妻・李氏の身の回りの品、髪飾り・耳飾り、部屋着・肌着の類と紙銭数十万貫分を町の外に持ち出し、野原に積み上げてこれに火をかけ、燃え尽きるまで何かを唱え続けていた。
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さて、牛はその日のうちに謝礼の金貨を受け取ってねぐらにしている場末の宿屋に転がりこんだ・・・はずであった。
夜分、その宿屋に、強面の男たちが五六人、突然押し入ってきた。
宿の主人翁は物慣れたもので、
「何の用じゃな?」
と訊ねると、強面の男たちの後ろから、
「牛道士に用がございまして・・・」
と顔を出したのは李である。
「ああ、おまえさんは一昨日お見えになったひとだね」
主人は商売柄ひとの顔を失念することが滅多にない。
「それは・・・、それより牛道士とご面会したいのだが・・・」
「ふほほ」
主人は笑った。この男も既に老人であるが、笑うと稚気を感じさせる男である。
「おおかた牛道士に大切な秘密を握られたかと思うて口封じをなさりに来られたのでしょうが、あの方がそんな下らぬ秘密を吹聴するはずがあろうか。おまえさんたちと見ている世界が違うのでござるよ」
と笑ったのである。
「うるさい、お前には用は無え!」「牛のやつを出しやがれ」
と強面の連中はすごみ、それで牛を刺すつもりであろう匕首の柄を握り締めたが、主人は笑いながら、
「あの方はおまえさんたちのやりそうなことはみんな予想がおつきだよ。もう
不知所在。
所在を知らず。
どこかに行ってしまわれて、ここにはおらぬ」
「なんだと!」
実際そうだったのである。牛は薛家から戻るなり、宿屋に支払いだけ済ませて、例の背負い袋一つを提げてどこかに去ってしまっていた。
―――――さて。
話は数ヶ月前に遡るのだが、蘇州府令の薛純中さまは、蘇州に赴任されてから、一人の官妓(官有の妓女)をお見初めになり、工作してこれを自らの妾に納れた。
薛の妻・李氏はもともと嫉妬心が強く、また激しい気性の女であったから、この妓女を虐待して殺そうとしたのだが、夫の薛はこれを察して、女を別宅に隠してしまったので、李氏、
不勝忿怒、謀害其夫。
忿怒(ふんど)に勝(た)えず、その夫を害さんと謀る。
怒りを抑えることができず、夫の薛を殺そうと考えた。
かくして、
俟薛酔帰、以刀賊其要害。
薛の酔うて帰るを俟ち、刀を以てその要害を賊す。
薛が酔って帰ってきた日を待って、深夜、刀を以てその急所を傷つけた。
「うごあ!」
家人救之、獲免。
家人これを救い、免がるを獲たり。
その叫びを聞いて駆けつけた家人たちにより、一命を取り止めることができた。
が、陰部は切り取られてしまっていたのである。
家人らは薛の手当てを行うとともに、李氏を一室に閉じ込めた。
薛は、意識を取り戻すと、すぐに李氏の実家に使いを使わして、事件を報せたのである。
李家からは、
俾其弟持薬飲之。
其の弟をして薬を持しこれに飲ませしむ。
李氏の弟がやってきた。
彼は父から預かってきた薬を持ってきて、これを姉の李氏に飲ませた。
李氏はこれを飲むと、しばらくして、全身激しく震えながら死んだ。
李家の士大夫の家としての、けじめであったということだ。
ただ、李氏の怒りは、単に妾を入れたことだけにあるのではなかったかも知れず、彼女にもなにがしかの言分はあったものと思われる。
・・・この話、鬱林の武官であった崔迪に聞いた。彼ははっきり言わぬが、若いころは相当の無頼であったらしいから、李が引き連れて行った強面連中の中に当時の彼もいた節がある。だからこの話は真実に近く思われるのである。
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以上。
ああオモシロかった。
北宋・張不疑の筆記小説「括異志」巻七より。パンデミックが来るらしいので、疫病系の話もコレクトしておきますね。