こいつらはすごいかわいそうなことになっているらしい・・・。世の中おかしい。

 

平成21年 4月 9日(木)  目次へ  昨日に戻る

あと一日だ。・・・と思って歯を食いしばっているです。

閑話休題。

中山の張興というひと、先祖代々の広大な田畑を有して借地人に小作させ、自らは毎日街中で飲酒するをこととしていた。

一日薄酔、遨遊市中、忽遇其故窗友王菜。

一日薄酔して市中に遨遊(ごうゆう)するに、忽ちその故窗友・王菜に遇う。

ある日、いささか酔うて街中で遊んでいたところ、突然、むかし同じ塾で学んだ友人の王菜に出会った。

「遨」(ゴウ)は「あそぶ」。

張は、

「なんとも久しぶりではないか」

とその腕を摑んで、街路の棗の木の下に連れて行って話しこんだ。

二人とも懐かしく、しばらくは時間の経つのも忘れて話していたが、やがて

暮色昏黄、繊月東上。

暮色昏黄にして繊月東に上る。

空は暮れなずみ、黄昏来たって、細い月も東の空に見え始めた。

そこで、張は王を連れて市中の酒楼に行こうとしたが、既に店じまいを始めていたので、自らの家に連れ帰って

出肴酒、挑灯共飲。

肴酒を出だし、灯を挑して共に飲む。

さかなと酒を出させて、燈をかかげて一緒に飲んだ。

時は移り・・・

笑談間、暁鶏乱唱。

笑談の間、暁鶏乱れ唱せり。

笑い語りあううちに、夜明けの鶏が次々も鳴きだす時刻となった。

「なんと、こんな時間か。えらくごちそうになってしまったのう・・・」

王起興辞。

王起ちて辞を興す。

王は座から立ち上がり、辞去の弁を述べ始めた。

しかし、張は許さない。

「どういうことか。朝まで飲んだのだ。このまま昼ごろまで眠っていけばいいではないか。大体、おぬしは今、どこで何をしているのだ?」

王は意外なことを答えた。

「どこで、だと? おい、忘れたのか?」

「?」

王、苦笑しながら曰く、

「わしは既に死んでいるのだぞ」

と。

そこで張はようやく王菜が随分前に死んでいたのを思い出した。

「む・・・、そういわれればそうであったな・・・」

王言う、

痛飲甚快、但官府将理奇案、欲往一探。不可再為遅留。

痛飲甚だ快なり、但し官府まさに奇案を理せんとすれば、往きて一探せんと欲す。再び遅留を為すべからず。

「かなり飲んだのでどえらく楽しかったぞ。しかし、わしは今、あの世の役所に勤めておるのだが、今度、上司が大事件の巡回裁判を行うことになった。わしは先に行って状況を調べておくように言われて来たのだ。これ以上とどまって遅れるわけにはいかんのだよ」

「うーむ、確かにおまえは死んだのであったが・・・」

張は酔っているのであろう、死んだはずの王にからんだ。

「どうだ、わしもその裁判を見に連れて行ってもらえんものか」

「何を言うか。あの世の裁判だぞ」

「いや、是非頼む」

と無理にその腕を捉えて離さない。

王はそのうち根負けしたか、苦笑しながら、

「わかった、連れて行ってやるよ。しかし、

有所見、無庸駭怪。

見るところ有るも、つねに駭怪する無かれ。

何かを見ても、びっくりして叫んだりするではないぞ。

そんなことをしたら、取替えしのつかないことになるかも知れんからなあ・・・」

と言うたのであった。(続く)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ああ、また、これか。町で死んだはずのやつに会う話です。同類の話を何回したかと思うともうめんどくさくて数えられないぐらいであるが、これでも参考にしておいてください。今回のお話は清・李酔茶「酔茶志怪」巻一より。

しかし、死んだやつが何で町中などを歩いていやがるのか。

こんな答えがあったので、参考までに引いておきます。

抑(そもそも)、その冥府と云ふは、此の顕国(うつしくに)をおきて、別(こと)に一処(ひとところ)あるにもあらず、直(ただち)にこの顕国の内いづこにも有るなれども、幽冥(ほのか)にして、現世(うつしよ)とは隔たり見えず。故(かれ)、もろこし人も、幽冥(ゆうめい)また冥府(めいふ)とは云へるなり。

だいたい、冥府というものは、この現実の地を離れて、べつのところにあるのではないのである。直接、この現実の地の中のあらゆるところにあるのであるが、ぼんやりとしているものであって、現世と隔たりの境界があるわけではない。そこで、シナのひとも、「幽冥」(かそかで暗い)とか「冥府」(くらい国)と呼ぶのである。

あちら側からはこちらがよく見えるのだが、こちらからはあちらははっきり見ることができないのだそうである。それは、行灯の紙を、半分は黒、半分は白で貼って、これを部屋の真ん中に置けば、黒い紙の向いている方から白い紙の向いている方をみれば明るくてよく見える。逆に、白い紙の方から黒い紙の方を見ると、くらがりでほのかにしか見えない、ということによく似ているのだ。

そうである。

これは、わたしが意外と敬愛している平田篤胤大人「霊の真柱」に書いてあるのである。しかし、白い紙の方と黒い紙の方の間には襖一つあるわけではないので、行き来はそれほど難しくないのだ。だいたい正しいと思うのであるが、如何。

 

目次へ  次へ