疲れた。が、まだ火曜日だと思うとさらに疲れる。

 

平成21年 4月 7日(火)  目次へ  昨日に戻る

ああ、今週はまだ三日もあるのだなあ。しかし難問が多くてもうコワれてきた。ぐすん。

・・・閑話休題。

陳茂烈、字・時周は福建・蒲田のひとである。年十八にして聖賢の学(儒学)に志し、

顔之克己、曾之自省。

こそ学問の基本であろう、と思い定めて、日々にそのことを行った。

「それは何じゃ?」

と言いますに、

(1)         顔之克己

 顔の己れに克つ。

というのは、孔子の最も信頼した弟子であった顔回がある時、孔子に質問した。

「先生、仁というのはいかなるものですか」

これに対して孔子の言うて曰く、

克己復礼為仁。一日克己復礼、天下帰仁焉。

己れに克ちて礼に復するを仁と為す。一日己れに克ちて礼に復すれば、天下仁に帰せん。

おのれの中の私心に打ち勝って、社会共通のルールを守るのじゃ。それが仁というものじゃよ。よいか一日だけでも(@支配者が、Aおまえが、B誰もが)おのれの中の私心に打ち勝って、社会共通のルールを守りきれば、天下のすべては仁の状態になるであろう。

※@〜Bは諸説あり。どれか好きなの選んでください。わたしはAが神秘的で好きですが、@が正しいのだろうなあ。

そのあともう少し孔子の説教が続きまして、最終的に顔回は、

「なあるほど。

回雖不敏、請事斯語矣。

回、不敏なりといえども、請う、この語を事とせんことを。

この顔回めは頭のめぐりが悪いとは申せども、いかに先生のおっしゃっていることが大切かはわかります。おっしゃられたことをわたしの行うべきこととして取り組んでまいります。」

と答えています(論語・顔淵第十二)ので、上記の

克己復礼

も顔回はしたはずです。

これが、

顔(回)の「己れに克つ」。

ということ。

 

(2)         曾之自省

曾の自ら省みる。

これも有名な言葉、孔子の弟士で魯の国における孔子教団を引き継いだと思われる曾参が言うたことに、

吾日三省吾身。為人謀、而不忠乎。与朋友交、而不信乎。伝不習乎。

吾、日にみたび吾が身を省みる。ひとのために謀りて忠ならざるか。朋友と交わりて信ならざるか。習わざるを伝うるか。

わしはのう、毎日三回自分のことを反省しておるんじゃ。@他人の相談にのって誠実に対応したか、A友人たちとの交わりの中で信用を無くさなかったか、Bいい加減な知識をひとに伝えてしまわなかったか。

(論語・学而第一)。なぜ「心」でなく「身」を省みるのか、とか、忠とは何か、信とは何か、など考えねばならんことはたくさんあるし、特にBについては古来議論のあるところですが、めんどくさいので細かいことは省略。

曾参が毎日三回反省した、というのが、

曾(参)の「自ら省みる」。

ということ。

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青年時代の陳時周はこの二つを旨としていたのである。

その後、弘治丙辰(九年。1496)に進士となり、広東に赴任した。そこで、生涯の師となる陳白沙に出会うこととなる・・・。

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今日はここまで。「明儒学案」巻六より。続きはまた来週(まで元気でいられるといいのですがな・・・)

 

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