生きていきたいのう。

 

平成21年 3月31日(火)  目次へ  昨日に戻る

しばらく間が空きましたが、明ひとの話をします。

陳白沙の門人に、鄒智(すう・ち)というひとがあった。ただし、彼が白沙の門にあったのは、わずかに一二年のことに過ぎない。

鄒智汝愚といい、立斎と号した。四川・合州のひとである。

弱冠(二十歳)にして解元(科挙の地方試験の首席)となり、成化丁未年(1487)には進士に及第した秀才であった。

翌年改元して弘治元年(1488)となったが、この年の冬、司天官が報告していうに、「星変あり」と。

普通に夜空を見ていても別に何も変なことは無いのですが、惑星の動きが予想されたとおりではない、というのである。

前近代においては、天文の異常は政治問題に直結する。為政者の何かが悪いので、それを天体が譴責しているのだ、という批判を呼び起こすのである。(政治の文脈においては、前近代の「天文」は、近現代の「経済」と同じモノだ、といえよう)

政治的理想を持つ若い立斎も、これを機会に皇帝に上書して、

惑星の動きがおかしいのは、

@    大臣不職・・・大臣に任命されているひとたちが仕事をきちんとしていない。

A    奄官弄権・・・宦官が権力をほしいままにしている。

せいである、よろしく賢者を用いて星の変事を消すべし。

と訴えた。

が、これは特に皇帝から「わかった」とか「うるさい」といった回答はありませんでした。要するに無視された。

上書は何の効果も無かったのですが、変革を訴える立斎は、友人の湯鼐(とうだい)、李文祥とともに、当局者を批判し、

日夜歌呼、以為君子進小人退、劉吉雖在、不足忌也。

日夜歌い呼ばいて、以て「君子進みて小人退く、劉吉ありといえども忌むに足らざるなり」と為す。

昼も夜も大声で、

「立派なひとが用いられ、下らぬやつは退けられるだろう、

劉吉さんがいるといってもこわがる必要はござらぬよ。」

と歌い呼ばわっていた。

批判された劉吉は当時の大臣である。

「怪しからんやつらがいるらしい」

と考えて、自らの一族であり食客である劉章という男に、立斎らの様子を探らせた。

そんなおり、寿州の知事をしている劉概という若手官僚から湯鼐に宛てて手紙が着いた。

その書にいうには、

夢一叟牽牛入水、公引之而上。

夢に一叟の牛を牽きて入水するに、公これを引きて上れり。

「わしはこの間夢を見ました。

一人のじじいが牛を牽いて水の中に入って行くのです。ああ、どうなるのだろうか、と心配してみていると、湯先生がお見えになって、その牛を岸辺に引っ張り上げ、事なきを得たのです。

これはどういう意味でございましょうか」

と自分で疑問を持っておいて自分で答えて曰く、

牛近国姓。此国勢頻危、頼公復安之兆也。

牛は国姓に近し。これ、国勢頻りに危うく、公に頼りてまた安んずるの兆しならん。

「牛」は、我が明朝の皇帝家の姓である「朱」に近い。すなわち「牛」は朝廷の比喩ではないでしょうか。

この夢は、国家の状態がたいへん危うい。国が亡びそうである。しかし、先生のおかげでまた復調してくるであろう、というしるしなのではないでしょうか。

と。

湯鼐はこの書を得て大いに喜び、あちこちで知り合いに見せびらかした。

その中には湯鼐らを快く思わず、その写しを劉章に見せた者があった。劉章は早速このことを劉吉に報告し、劉吉はこの写しを得て、

「彼らは国家を危うくするものである」

と司直に弾劾させしめたのであった。

劉概、湯鼐、さらにその一味と見なされた立斎や李文祥らはみな、捕えて取り調べられた。

国家を不安に陥れたとして、立斎らは死罪を論ぜられたが、結局は極刑を受けた者は無く、それぞれに左遷の形で辺地に流されることになった。

立斎も広東の石城の下級官吏(「吏目」)に左遷されたのである。

ところが立斎は、左遷先が広東と聞いてたいへん喜んだのであった。なぜなら、

広東には陳白沙先生がいる!

からである。

「一度、白沙先生の教えを受けてみたいと思っていたのです」

先生は広東に着くとすぐに白沙を訪ねて入門し、また自らの居宅を「謫仙堂」と名づけて、学問にいそしむ日を送っていた。

そんなある日、

其父来視、責以不能禄養、箠之。

その父来視し、責むるに禄養するあたわざるを以てし、これを箠(むち)うつ。

先生のおやじが突然広東までやってきて、先生の様子を見に来たのであった。そして、給与をもらって親を養うことができないとは何事か、と叱って、先生をムチで打った。

まわりのものはとりなしたが、先生は

泣受。

泣いて受く。

泣いてムチを受けた。

という。

これでさしも自信の強い先生の気力も折れたのであろうか、弘治四年(1491)、十月、病を得て卒した。年二十六であった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「明儒学案」巻六より。

このひとたちの行動は、おとなたちから見ればやはり奇矯、あるいは危うい。しかし、一面において真実に近い、ともいえるかも知れぬ。

そのような行動をとるひとたちが共鳴するのが陳白沙の学問であった、ということである。

 

目次へ  次へ