↑高南阜である。本文とは関係ない。

 

平成21年 2月12日(木)  目次へ  昨日に戻る

「石部金吉」という四文字熟語があります。

今日はこの熟語の故事来歴を解説しましょう。

実を申しますと、わたくし、この熟語を長いこと「いしべ・かねきち」と読んでいたが、「金吉」は湯桶読みではなかった!

「大言海」(新訂)を閲するに、

いしべ・きんきち

というのが正しい読みであるとのこと。

同書によれば、明和期に上田秋成の書(「世間妾形気」←肝冷斎注:なんだかオモシロそうですな)に

物堅キコト、石部金吉ニテ、忠義専ラノ士・・・

と現われているそうであり、本来の名乗りは

石部金吉鉄兜(いしべ・きんきち・てつかぶと)

であるともいう。

以上。勉強になりました。

さて。

山東・東莱の掖県に曲居士(仕官せず家に居る曲さん)というひとがあった。県城の西郊に草庵を結んでひとり暮らしており、

貌甚古、言多癲狂、人未之識也。

貌甚だ古、言は多く癲狂、ひといまだこれを知らず。

顔かたちはたいへん古風で言葉は多く風変わりであったが、ひとびとはそのひととなりをあまりよく知らなかった。

のであったが、

雍正十二年(1734)の春

に、にわかに有名になりました。

春たけなわの晩のこと、このひとの草庵から火が出て、

其光燭天。

その光、天を燭(てら)す。

その火光、夜空をあかあかと照らした。

ひとびと不思議な光の様にはじめ火事だと覚らなかったのだが、やがて居士の草庵が燃えているのに気づいて消火のために集ってきた。

しかし、そのときには、粗末な草庵は全く燃え落ちて、真っ黒な炭のようになっていたのである。

ところが驚いたことには、

居士端坐其中、儼然如生。

居士その中に端坐し、儼然として生けるが如し。

曲居士はその燃え残りの中にきちりと座って(亡くなって)おり、その姿は焦げなどなく、おごそかで生きているかのようであった。

惟頂上露一孔、体如銅鋳。

ただ頂上に一孔を露(あら)わし、体は銅鋳の如し。

ただ、頭のてっぺんに孔が一つ開いており、体に触れてみると銅像のように堅かった。

ちょうどその当時、わし(肝冷斎にあらず。清のひと漁洋山人のこと)の叔父貴の曾次南が東莱に赴任しており、その目で親しく曲居士のしかばねを見たのだそうである。

叔父貴が試しに

持煙具撃之、鏜鏜有声。

煙具を持ちてこれを撃つに、鏜々(とう・とう)として声あり。

きせるを手に持ってその銅像のようなしかばねを叩いてみたところ、ごんごんという音がした。

ニンゲンが石や金属に化してしまうことは、やはりあるのである。

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親族が実際に見た、というのですから、疑う余地は無いでしょう。そういうことがあるものなのですなあ。石部金吉鉄兜もこの類であったのかも知れぬ。清・漁洋山人・曾七如「漁洋夜譚」巻十二より。

 

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