↑わしも故山に帰るであろう。まもなく。
一週間終わった。
いつもいつも金曜日になると、おんなじことを言っている気がしますが、
ああ、「月曜日が来ない」ことがわかっていたら、今日はなんと幸せな日であることだろうか。
・・・こんなことをいつも言っているようでは、やはりわたしはこの世間を棄てて生きていくしかないのだなあ、という思いも深まる。
以上、詠嘆終わり。
さて、「世間を棄てる」と申しますと、
我本不棄世、 我もと世を棄てず、
世人自棄我。 世人の自ら我を棄つるなり。
わしが世間を棄てるのではないぞ。
おまえさんら世間さまの方が、自分でわしを棄てたんじゃからな。
と責任転嫁をするひともいるのです。
このひとは、世間から棄てられて、
一乗無倪舟、 一たび無倪の舟に乗り、
八極縦遠柂。 八極は遠く柂(ダ)に縦(まか)す。
ひょいとどこまで見渡しても果ての無いこの(地球という)舟に飛び乗った。
世界の八方の涯に立つという柱まで、はるかにこの舵の向かうままに行こう。
「倪」(ゲイ)は「にらむ」ですが、ぎろりと睨んでもどこまでも何も見えない、というのを「無倪」と言うている。このでかい舟に乗って世界の果てまで行こうという。どう考えてもこのひとは変なあたまのひとのようです。
燕客期躍馬、 燕客は躍馬を期するに、
唐生安敢譏。 唐生はいずくんぞあえて譏(そし)らんや。
燕国出身の旅人は、馬を躍らせて立身出世するを夢見ているというのに、
どうして人相見の唐さんは、彼のことを悪く言ったりするものかね。
これは、燕(今の河北)出身の説客である戦国の蔡沢というひとの故事です。→※
実はこの詩は、これから旅に出るひとを見送る詩なので、こんなことを言っているのです。ただし、そのひとは戦国時代の蔡沢が出世を目指したのに対して、(同じ蔡という姓ですが)これから故郷に帰って山の中で暮らそう、としているひとなのですが・・・。
采珠勿驚龍、 珠を采るには龍を驚かす勿れ、
大道可暗帰。 大道は暗きに帰るべきなり。
おまえさんはこれから、人生において本当に大切な宝物を得ることになるであろうが、そのときその宝物の守り神である眠れる龍を起こしてしまってはなりませんぞ。
これから暗い中、大いなる道を人生の本当の居場所に向かって帰っていくべきじゃ。
「龍」の珠は龍の頤の下にあり、これを取ろうとして龍を起こしてしまうことになるので取ることができない、という「荘子」の中の言葉を踏まえているのでしょう。
故山有松月、 故山に松の月有りて、
遅爾玩清暉。 なんじの清暉を玩ぶを遅しとせん。
故郷の山には松が生えておりましょう、そこには月も掛かりましょう。
(故郷は)おまえさんがその清らかな光を楽しむのを、いまや遅しと待っておりましょうぞ。
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以上でおしまい。
終わりの方も、かなり変なあたまな感じはします。
実はこれは唐の李太白の「送蔡山人」(蔡山人を送る)という詩。(李太白全集巻十七)
途中まで自分が棄てられたとか舟に乗るとか言っておいて、半ばから後は他人の旅立ちを送るうたになってしまう。詩人というのは、あたま変なのが普通ですが、やはりこのひとの変なのはかなりのものがありますね。
ちなみに文中の「※」、「蔡沢躍馬」のお話は史記に出るお話なのでみんな知っているのでお話する必要も無いでしょう。が、ネタとして使わないと勿体ないので、明日のネタにいたします(予定)。イヤなひとは申し出てください。