名著「子不語」の著者である文人の小倉山房主人・袁枚(随園老人)(1716〜1798)の孫に袁志祖というひとがいまして、このひとが、祖父のところに先輩に当たる文人・鄭燮(字・克柔)(板橋先生)が来訪したことを記録している。ただし、その事は袁志祖がまだ生まれる前のことで、彼は家に遺ったものと鄭板橋の詩集を参照して、このことを自らの著書「随園瑣記」に記したのだった。
その日、鄭板橋は一通り案内を受けて随園を見て周り、また家族とも引き合わされ、酒食の歓待を受けた。
そして、その帰り際に、
贈先大父詩。
先大父に詩を贈る。
亡くなった祖父に詩を一首贈ってくださったのであった。
その詩に言う、
室蔵美婦隣誇艶。 室には美婦を蔵し、隣に艶なるを誇る。
君有奇才我不貧。 君には奇才有りて、我も貧しからず。
家中には美しい女を囲うて、近隣ではその色っぽいのを羨まれているようじゃな。
おまえさんには誰にも真似できない(文芸の)才能があるのは認めるが、(美女と違い才能の方は)わしにもそこそこ持ち合わせがあるぞ。
ひとに贈るには失礼な文句である。
しかし、随園先生から見れば鄭板橋の方が二十以上も年上で、いわゆる「父事」(父親と同じようにお世話すべき年の差があること)の関係になる大先輩ですから怒るわけにはいかん。
自尊心の強い随園先生も
「ははー」
と押し戴いた。
ただし、この「詩」はこの二句しかない。「詩」になるためには少なくとも四句無ければならないのですが、これでは詩にはなりません。
袁志祖は
或懸楹聯耶。
あるいは楹に懸くるの聯か。
あるいは、柱に懸けるための「対聯」として下さったものだったのではないか。
と解釈する。そういえば、祖父の書斎には、鄭板橋のいささか右肩上がりの筆跡で、この対聯が懸けられ、晩年の祖父がその前でよくにやにやしていたような・・・。
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室に美婦を蔵し、隣に艶を誇る。
と柱にでかでかと懸けておけ、というのもひどいことですが、なにしろ鄭板橋は楊州八怪の筆頭とされる希代の奇人ですから刃向かうわけにはいきません。また袁随園は四人の妾を持ち、また女弟子との間にもいろいろと噂のあった人物であり、後輩の銭梅渓(1759〜1844)から
于好色二字不免少累其徳。
「好色」の二字において少しくその徳を累するを免れず。
「エロおやじ」という五文字が、彼の人物評価に少々影響することをどうしても妨げることができなかった。
と評されております(「履園譚詩」)ひとなので、いまさら何を言われてもどうということはない、という状況だったのかも知れませぬ。
袁随園は、自らの著書「随園詩話」において、彼の方が楊州を訪ねた際、痩西湖のほとりで鄭板橋が向こう岸の小金山という山の端に昇った月を観て
月来満地水、 月は来たり、地に満つるの水、
雲起一天山。 雲は起こり、一天の山。
月が昇ってきて、平野は冷たい光に満たされ、痩西湖の湖面と区別がつかなくなった。
雲が湧いてきて、夜空に雲塊となり、小金山と同じように見目良い山が天上にも出来た。
とうたったことを記し、その壮大な心性、高尚な情感、比類ない表現力と観察力を高く評価しているので、ひとかたならぬ敬意を払っていたのは間違いない。