明の弘治年間(1488〜1505)のことでございます。
銭塘の安渓山に虎が多く出て、人民に害をなした。そこで県令は布令を出して、猟師らに虎を退治させたのであった。
すると、一日にしてたちまち三頭の虎が射殺された。
県令は上機嫌で、上役である所轄の府知事のところに、
「仁慈あふれる御政道のおかげで人民どもの害を為す虎を、わずか一日にして三頭も捕らえることができましてございます」
と、三頭分の毛皮を添えて報告した。
府知事大いにお喜びになられ、嘉納なさるとともに、県令にオホメの言葉まで賜った。
それを聞いて、人民たちは悔しそうに言う、
令実貪墨者焉。
令、実に貪墨者なり。
県令のやつは、実のところはたいへんな強欲者だというのに・・・。
と。
―――――「貪墨」という言葉について、解説します。これは「たいへん強欲である」こと。字面だけ見ると「墨を貪る」と読んで、強欲で墨まで食ってしまうという意味ではないか、と納得するひともあるかも知れませんが、違うのです。
「春秋左氏伝」によれば魯の昭公の十四年(紀元前528年)のこと、晋の国内で内輪もめがあり、邢侯と、雍子及びその女婿の叔魚とが相争った。このとき、彼らの誰が正しく誰が間違っているかを宰相の趙宣子に問われた賢人・叔向は、「三人同罪」と定罪した。なぜなら、
己悪而掠美為昏、貪以敗官為墨、殺人不忘為賊。夏書曰昏墨賊殺。
己れ悪にして美を掠めるを「昏」と為し、貪るに官を敗るを以てするを「墨」と為し、人を殺して忘れざるを「賊」と為す。夏書に曰く、「昏・墨・賊は殺す」と。
自分が悪であるのに正しいひとに害を為すのを「昏」(目の見えない振る舞いをする)といいます。
欲望に任せて役所の仕事をないがしろにする(汚職など)のを「墨」(墨のように心が真っ黒である=腹黒い)といいます。
人を意識して死に至らしめ、そのことを反省しないのを「賊」(他人をそこなう)といいます。
(殷より以前の)夏の時代の刑罰規定に「昏と墨と賊は死刑」と書いてございます。(この三人は三人ともこれに当たるからです。)
この故事から、「貪墨」という熟語ができたのである。・・・以上、解説終わり。――――――
さて、人民たちの思いを代弁するかのように、翌朝、府庁の門に落書が貼り出されていた。
虎告使君聴我歌。 虎、使君に告ぐ、我が歌を聴け、と。
使君比我殺人多。 「使君、我に比して殺人多し。
使君若肯行仁政、 使君もしあえて仁政を行わば、
我自雙雙北渡河。 我自ら雙雙として北のかたに河を渡らん。」
トラが県令さまに申し上げたとさ、「わしの歌を聞いてくだされ」と。その歌にいう、
――県令さまはわしよりも多くのひとを殺していなさる。
県令さまがもし心入れ替えて思いやり深い政治をなさるのなら、
わしらは自分から仲間と連れ立って、北の河を渡って他の土地に行ってしまうのですがのう。
これは当時府庁の書記をしていた詩人の兪鳴玉の作らしいのだが、人民どもはみな快哉を叫んだということである。
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明・郎瑛「七修類稿」巻三十二より。
正体が明らかになって人民に「快哉」を叫んでいただけてよかったです。訳者も訳す甲斐があるというものだ。どんなに美々しい言葉で飾ったとて、いずれは為政者の正体はばれてしまうものだと思いますがねえ・・・。