ホネに類するもので、交換されてしまうモノ、すなわち「換骨」というのは案外多いものである。
たとえば次のようなもの。
人の歯
龍の骨
象の牙
鹿の角
蛇の皮
蝦・蟹の殻
ところで、これらは基本的には
終身一換。
身を終うるまでに一たび換(か)わる。
一生涯に一回だけ交換される。
のであるが、
惟鹿則毎歳一換、龍・象至六十年骨全而後換也。
鹿のみはすなわち毎歳一換し、龍・象は六十年骨全きに至りて後、換るなり。
鹿の角だけは毎年一回交換され、龍の骨と象の牙は六十年間損傷されずに過ぎた後、交換されるのである。
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と、明・郎仁宝の「七修類稿」巻四十四に書いてあった。
「ほんとか?」
と疑問を持つひともいるかと思うのですが、それぞれ観察するのもめんどうくさいので、
「まあ、そうなんだろうなあ」
と妥協しておくのがよろしいでしょう。
ところで、「換骨」というのはもともと道教の用語で、俗骨を交換して仙骨を得ることをいいますが、これに「胎を奪う」を引っ付けた「換骨奪胎」という語は、字面だけ見るとリョーキ系の言葉に見える。のですが、実は大してリョーキではない。
・・・宋の黄山谷がいうに、
詩意には窮まりが無い。しかし、人の才には限りがある。有限の才を以て無窮の意を追いかけようとするのだ、陶淵明や杜少陵のような天才といえども巧を尽くすを得ることができるはずがないであろう。そこで、
不易其意、而造其語、謂之換骨法、規範其意形容之、謂之奪胎法。
その意を易えずしてその語を造る、これを換骨法と謂い、その意を規範してこれを形容す、これを奪胎法と謂う。
詩の意を変化させずに言葉を新たにする、これを「骨を交換するやり方」といい、詩の意をモデルにしてこれを新たな言葉で表す、これを「子宮を奪ってくるやり方」という。
この換骨法と奪胎法によって、(無窮の意を一定にすることにより)有限の才を以て詩意を表すことができるようになるのである。
という詩作法の解説が、山谷とほぼ同時代人である恵洪の「冷斎夜話」に書かれている。
これが「換骨奪胎」という言葉の典故ですね。(ちょっとがっかり・・・?)
なお、「冷斎夜話」の著者・恵洪は、
瑞州清涼寺恵洪覚範禅師
という名前の立派な僧侶で、「墨客揮犀」を著わした彭乗とも近い関係にあったと思われるひとです。
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まったく関係ありませんが、遠江・謂伊神社境内の天白遺跡はすごいところでした。空気がびりびりに震えてる感じ。