平成21年11月24日(火)  目次へ  前回に戻る

はやりの唄には縁の無いおれだが、最近、なかなか佳いのを耳にした。

ジャツパンニース是(これ)ナゼ泣ク歟(か)

親モ無イカ子モ無イカ

親も子もごんす

たつた一ツの我自由

鷹めに取られて昨日今日

昨日と思へど二千年

三千余万の兄弟と

共に取りたい我が自由

「ウラル」の山に腰掛けて

東を遥かにながむれば

卑屈世界の亜細亜洲

これは明治十四年夏、土佐の若者や漁師たちが毎夜踊ったという「民権踊り」の一曲である。(倉田喜弘「「はやり歌」の考古学」2001文春新書p76)より)

明治十四年といえば1881年であるからわしにしてみれば最近のこと。

この唄、自由政体を持つ欧米ガイジンへの卑屈の表明かと思われる冒頭からはじまって、「ごんす」という接尾辞の使い方、「昨日今日」と思ったけどもう二千年経っていた、とか、「ウラルの山に腰掛けて」というソロリ新左衛門的世界観とか、見るべきものが多い唄である。

さて、明治以前にはわしは(中間は省略)

・・・三国のころは、わしは呉に住んでおったので、呉の国の流行り唄はよく覚えておるのう。

孫亮の建興年間(252〜253)のころ、公安の町で白い鼉(ダ。ヨウスコウワニ)が現われ、大きな声で鳴いた、ということがあった。

ひとびとは、

白鼉鳴        白鼉は鳴き、

亀背平。       亀背は平なり。

南郡城中可長生、 南郡城中の可長生、 

守死不去義無成。 守死して去らず、義の成す無し。

と歌いあった。

白いワニが鳴いたよ。

亀の背中は平ぺったいよ。

南郡のお城の中で可長生さんは、城を守って死ぬまで逃げ出さなかったが、それはちっとも正義でないよ。

この歌の流行ったころは、わしらは、公安城中にほんとうに「可長生」というひとがいるのだろうか、そういう名のひとがいれば早く逃げ出さないといけないねえ、と後で思うと下らない会話で盛り上がったものであるが、翌年、公安の知事であった諸葛融が兄の諸葛恪に攻められ、乱軍中に死ぬという事件が起こり、ようやくこのことを予言した歌だったのだと明らかになったのである。

「可長生」はひとの名ではなく、「長生きすべき」ひと、すなわち誰よりもエラい知事さまのことを言っていたのだ。そして、諸葛融は亀の形の金印を帯びたまま死んでいた。ワニは鱗があるから鎧兜を身につけた兵士たちの象徴であり、また「白」は軍事の徴であったのだ。

これは晋書・五行志にも書かれている有名な事件である。

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晋書・五行志にはこんなのばかり「詩妖」(歌のあやかし)と称して40例挙げられております。

 

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