清の銭大昭(字・晦之)の読書メモ集である「邇言」をごろごろ読んでおりました。
「このひとは、どうしてこんな下らんことに興味をもって記事を遺したのであろうか、変なひとだなあ」
と思ってしまいますが、それをごろごろ読んで、その読書メモをまた作っているわしももしかしたら変なひとだったらどうしよう、いや、そんなことはあるまい、と信ずる。
内容はこんな話なんですよ、と、とりあえず、二つばかり引用してみましょう。
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@ 今宵有酒
今宵有酒今宵酔、 今宵酒あれば今宵酔い、
明日愁来明日愁。 明日愁い来たれば明日愁えん。
今晩、お酒があるなら今晩気持ちよく酔おうではないか。
明日、イヤなことが起こったら、明日イヤな思いをすることにしよう。
という句がある。
この句は、宋の王勉夫の「野客叢書」に唐の羅隠の詩である、として引かれているものである。
しかしながら、宋・呉曾の「能改斎漫録」には、権審というひとの作品だ、
得則高歌失則休、 得ればすなわち高歌し、失えばすなわち休(や)まん、
何須多恨太悠悠。 何ぞ多恨しはなはだ悠々なるを須(もち)いんや。
成功したら高らかに歌を歌おう、失敗したら止めておこう。
どうしていろいろ後悔したり、たいへん心配したりする必要があろうか。
という二句がくっついて一首の詩になっているのだ、と書いてある。
どちらが正しいかはわからない。
A 金龍大王
金龍大王はもともと人間で謝緒というひとであった。
どういう来歴のひとかわからないのだが、現在では、黄河の支流である洪河のほとりに祠が建てられている。
明の隆慶年間(1567〜1572)、大司空の潘季馴が黄河の運輸監督官であったとき、黄河の流れが塞がれて流れなくなってしまったことがあった。潘司空は黄河の神に祈る祈祷文を作って祀ったが、何の効果も無かった。
ところがある日、潘司空の部下の一書記が、夕暮れに洪河のほとりを通り過ぎたとき、五人の屈強の男たちに囲まれ、金龍大王の祠に引きずりこまれたのである。
祠の中には正面に金龍大王の神像があるのだが、この日は神像の代わりにひとりの男が座っており、彼が書記に強い口調で言うた。まるで取調官が詰問するように。
若官人胡得無礼。
官人のごときはなんぞ得て無礼なるや。
お役人よ、どうしておまえたちはそんなに礼儀を知らぬのか。
「あわわ、ど、どういう失礼がございましたものでしょうか」
書記が恐れ畏こみ申すと、男は言う、
「黄河の流れが塞がったのは、天の理数によるものなのだ。わしがどうしてわざわざ民くさを苦しめようと思うものか。よいか、帰って司空どのに告げるがよい。わしはすでに天帝に民くさが苦しんでいることを奏上した。天帝からは○日後には閉塞している部分の泥を取り除き、黄河を流れさせしめることにしている、というご連絡をいただいた。だからご心配には及ばぬ、とな。
それより、司空どのが黄河の神に祈るために書いた祈祷文、おおかた書記の誰かに書かせたものと思うが、
掌書不敬、当罰。
書を掌ること不敬ならば、まさに罰すべし。
その書の中身や扱い方に不敬な部分があれば、罰が司空どのや書いた書記に与えられることになるだろう。
それをご心配なされよ、とお伝えせい」
書記は
「そ、そんなことお伝えできませぬー」
と抵抗したが、突然後頭部に衝撃が走り、気を失ってしまった。
・・・・・・・・気がつくと、祠の中に倒れており、神像はいつものように無表情に座っている。その左右には、五体の武人姿の泥人形が、脇侍として並んでいるのである。
書記は帰って司空に、包み隠さず報告した。
河果以某日通。
河、果たして某日を以て通ず。
黄河は、結局、予告されたとおりの日に、流れはじめた。
司空と書記はその後しばらく、たいへん不安な日を過したそうであるが、結局何事も無かったそうである。
こうして、黄河の神は金龍大王であることが判明したのだ。
・・・と、馮元成が書きのこしている。
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肝冷斎曰く、たとえ今宵酒あって酔うたとしても、明日イヤなことが起こるのはやっぱりイヤだなあ、と思います。