昨日、「野客叢書」の話が出たので、今日はごろごろと「野客叢書」を読んでみる。
昨日の「邇言」が清の銭大昭の読書メモであるのに対し、「野客叢書」は宋の王勉夫の読書メモである。王勉夫は江蘇・長洲のひと、紹興二十一年(1151)生まれで、生涯仕官することなく、隠居して読書・著述の日々を送り、嘉定六年(1213)没。
「このひとも、どうしてこんな下らんことに興味をもって記事を遺したのであろうか、変なひとだなあ」
と思ってしまいますが、それをごろごろ読んで、その読書メモをまた作っているわしももしかしたら変なひとだったらどうしよう、いや、そんなことはあるまい、と、今日も信ずる。
内容はこんな話なんですよ、と、とりあえず、一つだけ引用してみましょう。
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○鳳尾虎頭
唐の皮日休の詩の中に、「鳳尾諾」と「虎頭ー」を対に使っている句がある。また、蘇東坡の作品の中にも、「鳳尾諾」と「虎頭州」を対に使っている例がある。
「ー」(ガン、ゲン)は「岩山」であるから、「虎頭ー」は四川・富順にあるという「虎頭山」を指し、「虎頭州」は江西の「虎頭城」を指すかと思われる。
では、「鳳尾諾」とは何であろうか。
按晋帝批奏書、諾字之尾如鳳尾之形。故謂鳳尾諾。
按ずるに晋帝の奏書を批するに、諾字の尾、鳳の尾の形の如くにす。故に「鳳尾諾」と謂う。
考えてみました。これは、晋代以降の皇帝が、上奏されてきた文書を決裁する場合、「諾」と書く際に、この「諾」の字の最後を鳳凰の尾の形のように書いた。これを「鳳凰の尾のような諾字」と呼んだのである。
ちなみに「諾」というのは、現代(宋の時代のこと)の官庁用語の「可」(了承の意)という言葉と同じである。
「南史」の「斉・江夏王鋒伝」に、晋の次の宋の次の斉朝の時代のこととして、
江夏王鋒、年五歳、斉高帝使学鳳尾諾、一学即工。
江夏王鋒、年五歳なるとき、斉高帝、鳳尾諾を学ばしむに、一学して即ち工なり。
江夏王の蕭鋒は五歳のときに、時の高帝が「鳳尾諾」を書くことを学ばせたところ、一回教えただけですぐに巧く書けるようになった。
そこで
「この子は、将来、最終決裁者=すなわち皇帝=となるにふさわしいかも知れぬ」
と言われたのである、ということが書いてあるのが参考になる。
ところで、「諾」字は「詔」(みことのり)という字に形が似ている。そして、「鳳詔」という言葉もある。このため、「鳳尾諾」という熟語を見たひとが(「鳳尾諾」という言葉を知らず)「鳳尾詔」だと間違ってしまうことがあった。現代(宋の時代)に刊行されている書物によくこの語が出てきており、わたし(著者の王勉夫のこと)が見た限りでは「陸亀蒙集」がそうであった。断っておくが、「鳳尾詔」という言葉は無いのである。
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最初の方では
「何でこんな下らんことを研究しているのだろう・・・」
と疑問を持ちましたが、最後の方で「ひとの誤りを指摘するという喜び」がもたらされているので、それがこのような研究の原動力なのでしょう。
文中に何の解説も無く「鳳詔」という言葉が出てきますが、これは「みことのり」のことを美化していう成語。
五胡十六国の一で、鄴に都した後趙の石虎(字・季龍。在位335〜349)が高楼の上で風景を楽しみながら、愛するきさきに当てて、
為詔書五色紙、著鳳口中。鳳既銜詔、侍人放数百丈緋縄、轆轤回転、鳳凰飛下。
詔して五色紙に書を為し、鳳口中に著(つ)く。鳳すでに詔を銜(くわ)うれば、侍人数百丈の緋縄を放ち、轆轤回転して、鳳凰飛び下るなり。
自らの言葉(愛のことばですな)を五色の紙に書きつけて、鳳凰のくちばしにくわえさせる。鳳凰がきちんと詔書を銜えると、お付きの宦官がこの鳳凰を高殿の上から放す。すると、鳳凰は、(結わえられた)数百丈(数百メートル)の長さの紅色の縄に導かれ、この縄が巻きつけられた軸が回転して、地上に向かって飛び降りて行くのである。
すると、ただちに、地上にいる宦官がこれをきさきのところに持ち運ぶ。
謂之鳳詔。
これを「鳳詔」と謂う。
これを当時「鳳凰の運ぶみことのり」と呼んだ。
「なんとなんと! 四世紀の華北には、想像上の鳥とされている鳳凰が棲息していたのか」
と驚くひとがいるといけませんので念のため言っておきますが、
鳳凰以木作之、五色漆画、嘴脚皆用金。
鳳凰は木を以てこれを作り、五色に漆画し、嘴脚みな金を用う。
この鳳凰は木で造られ、漆を混ぜた顔料で五色に彩色され、くちばしと脚は黄金で製作されていた。
造りモノだったのですよ。
・・・と、晋の陸翽が「鄴中記」に書いている。
後に皇帝の詔のことを「鳳詔」というようになったのである。