平成21年10月 5日(月)  目次へ  前回に戻る

魯の国にたいへん「控えめで慎み深いひと」(原文「恭士」)がおった。名前を(き・し)といい、その齢は既に七十歳、魯公の相談役も勤める身分あるひとである。

このひと、年をとればとるほど控えめで慎み深い態度をとり、例えば、

・冬の日に陽だまりは人に譲って自らは日陰を歩き、夏の日には日陰を人に譲って自らは日の照るところを歩き、

・市場で売り買いするときは必ずひとより先に並ぶことをせず(交易でひとより先んじないということは、利益が減ずるのである)、

・ひとと歩くときには同列には歩かず、必ず一歩後ろを歩き、

・座るときには必ず正座し、

・家で一食のメシを食う間に二度も三度も立ち上がって、門前を通る毛皮や麻の服を着る貧乏な自由民に対して、必ず礼にしたがって挨拶をする。

のであった。

魯公、あるとき問うた。

「机よ。あなたは既に年齢は七十の高きに達し、身分も決して低くは無い。もっとゆったりとひとに尊ばれていてもよいのではないだろうか。どうしてそのように控えめで慎み深くあるのか。」

、答えて曰く、

「公よ。君子は控えめで慎み深くあることを好み、それによって名誉を得ようとするものでございます。これに対して、小人は控えめで慎み深くあることを自らに課し、それでひとに罰せられないようにするものでございます。おお、それさえせぬ者については何を申し上げられましょうか。

公はわたくしに、もっとゆったりとひとに尊ばれていてもよい、とおっしゃいました。それは、わたくしが今、つらい思いをしているのではないか、というご心配からおっしゃられたのだと思いますが、そのようなご心配には及びませぬ。のような者はまったく幸せ者というべきでございます。

例えば、今、公の顧問というわたしの地位は、決して無条件に安楽な地位ではございません。これでも迷ったり躓いたりすることがございます。また、一食のメシを食うとしても、その間、美味だけを感じておれるわけでもございません。必ず、むせんだり咽喉に痞えたりするものでございます。

さらに突き詰めて行きますと、

鴻鵠飛冲天、豈不高哉。矰繳尚得而加之。

鴻鵠は飛びて天に冲(ちゅう)す、あに高からざらんや。矰繳(そうしゃく)なお得てこれに加う。

申し上げるまでもなく、「矰」(そう)は「射ぐるみ」、糸をつないでおいて、狙われた獲物が逃げられないようにした矢のことでございます。「繳」(しゃく)はその糸のことで、「矰繳」と二字でも「射ぐるみ」のことにございまする。

大きな鳥は天空の真ん中を飛びまわる。高いところまで飛び行くことができる。それでも「射ぐるみ」によって(人間に)捕獲されてしまうことがある。

というのでござる。

虎豹為猛、人尚食其肉、席其皮。

虎豹は猛なれども、人なおその肉を食らい、その皮を席す。

虎や豹は強猛な獣でござる。それなのに、人間はそれを捕らえ、その肉を食い、その皮を敷物にしているのでござる。

どのような高いところを行くものも、強く猛々しいものも、絶対に安全であることは無い。卑劣な者に狙われれば、必ず打ち落とされ、命と皮を奪われるものなのでございますね。

しかも、

譽人者少、悪人者多。

人を誉むる者は少なく、人を悪(にく)む者は多し。

ひとの良いところを評価する人間は少ないのに、ひとの悪いところをあげつらい、憎悪する人間ははるかに多いのでございますぞ。

この七十年の間、はつねに斧の刃がこの首に当てられる(刑罰を受けてクビをちょんぎられること)のをずっと心配して生きてきております。どうして控えめで慎み深くあることを棄てられましょうか。」

これを聞き、魯公は自らの身の回りが危険に満ちていることを思って、言葉を失ったのであった。

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これも昨日と同じく、漢・劉向の編纂せる「説苑」(巻十・敬慎篇)にあるお話です。

わたくしのようにニンゲンというものがダメなものであることについて深く勉強しているものにとっては大した勉強にはならぬのですが、みなさんにはこのような古典的な記述でも、よく勉強になるでしょうなあ。

何にせよ巨大な台風が近づいております。富士山でも隆起が観測されたとのこと。いよいよかも知れませぬなあ。ひひひ・・・

 

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