沖縄観光記3 (起:平成24年10月1日(月))  目次へ  平成24年9月へ

まだまだこのページはおえらがたには見つかっておりませんよ。ひっひっひ。

←これはアバサンゴ。はじめ糸満市のキャラかと思ったが、全国海人(うみんちゅ)大会のキャラらしい。アバサは「フグ」。

平成24年10月

1日 

安里金満宮

琉球八社の一・安里八幡宮を探しに行って遭遇。八幡宮の方はたどりついたときにはとっぷり暮れていたので、おまいりだけしてきました。

←カニマングウと読むはず。

13日

本部町博物館

死者の骨をおさめる甕、パナマ帽を作る道具、各種農具(←日本中たいてい同じ)のほか、サンゴとか五色エビとか標本がたくさんありました。今回はすべて省略せねばならぬが、本部には、具志堅のなんやら踊り、備瀬のフクギ並木、山川同穴遺跡、瀬底島の土帝廟などいつか実地に検みせねばならぬ場がたくさんあることを知った。また、国頭支隊等の戦いについても少々学んだ。

 

 

 

 

 

←遺骨を入れる厨子甕(ジーシーガミ)

←この円筒形のものに巻きつけてパナマ帽を作る。

美ゅら海海賊館

だと思ったら「水族館」だそうだ。正面に伊江島が見えた。あーあ、週末のシゴトが無ければ今ごろあの島にいて、明日は台風接近で船が止まって帰って来れず明後日休み明々後日も休み・・・だったのになあ・・・。
ジンベエザメやじゅごんの仲間ナマティー(←一日中水底でごろごろしており、呼吸をするのも忘れることがあるという)の飼育で有名。

←ナマティー先生

14日

安里八幡宮・神徳寺

しごとの合間にお詣りしてきました。二礼・二拍・一礼でお参りするとほっとする。

今も沖縄の多くの拝所・御嶽がそうであるように、かつては日本中の神社・祠の類への祈りは世襲神官たちに掌握され、また神社それぞれで祈祷の仕方が違ったということですが、国家神道のおかげで本土ではほとんどの神社で、沖縄でも琉球八社といわれる古社で、氏子でもないわしも勝手に二礼二拍一礼して清々しい気持ちを味わえるようになった。ありがたや。
ところで、琉球八社のうち、安里八幡宮だけが八幡神を祀っております(他の八社は「権現」)ことからわかりますように、珍しくここは「軍神」(いくさがみ)である。王が奄美を攻めんとして八幡神に祈ったところ奄美を攻略することができたので祀ったという(→詳細は「球陽」にあるので、いずれ)。沖縄戦で神宮寺である神徳寺ともども焼失したが平成に入ってようやく再建されたよし。

←安里八幡宮。後ろのはおもろまちに建設中の「ツインタワー」。

那覇市伝統工芸展示館

壺焼、紅型、首里織、琉球ガラスについて。ニンゲン国宝の作品など。那覇の近世の子供用のおもちゃがオモシロかった。カロービンガとかちょっとコワい。

「泊手」

泊散策路中に「武士・松武良」の記念石あり。松武良は19世紀の武道家、唐手を改良して「泊手」と呼ばれる一派を開創したよし。記念石の場と松武良の関係は今一つ明らかではないが、このあたりに住したということか。なお「武士」とは沖縄では士族の身分呼称ではなく、唐手の使い手を一般にいう。

←これ。左の方の浮彫はカラテの型をしている琉装の若者。

七ツ墓

美栄橋のモノレール駅のすぐ傍らに、取り残されたようにある小丘。七ツの古墓があるからそう呼ばれるそうなのですが、元は那覇港内の島であったといい、今は周囲が開発されて一部削られたりしているようですが、あまりコワい話は聞かないけどフンイキはコワい。詳細はもっと探検してから・・・。

←モノレール美栄橋駅ホームより。真ん中の緑の小山が「七つ墓」

20日〜21日

久米島第一次調査を敢行。以下に列挙されている場所のうちのあるところで、すごいモノ見てしまいました・・・が、案内書等にどこにも書いてないことなので、「言ってはいけないこと」なのでしょう。わしは言いませんぞ。※この「すごいモノ」のことは、伊波普猷先生の「南島古代の葬制」にちょっとだけ書いてありました。平凡社東洋文庫の「をなり神の島」1のp27参照。でも、昭和13年に刊行されたこの本に書いてあるモノがいまだにそのままあるなんて・・・。しかもピカピカのが・・・。やはり言ってはいけないような気がしますのでわしは言いませんぞ。

有名な上江洲家住宅が抜けている? そうです、20日も21日も行ってみましたが、「お休み」でしたのじゃ。

(忘れるといけないので、とりあえず行ったところを列挙)

久米島博物館

伊敷索城(いしきなわ(チナハ)・ぐすく)跡

ガラサー山(知仁(ちーみ)御嶽)

久米島球場(ホタルドーム)→楽天のキャンプ場

ヤジヤーガマ遺跡

君南風殿内(チンペードゥンチ)

泰山石敢当

西銘ノロ殿内

五枝の松

おばけ坂

具志川城跡

ミーフガー

天宮城(あんまーぐすく)・タチジャミ

比屋定のウティダ石(太陽石)

天后宮(ブーサード)

トクジム自然公園・鳥の口

塩原城(スハラグスク)・みどり丸慰霊碑

奥武島畳石

ウミガメ館

海神の碑

仲里間切蔵元跡

阿嘉黒石(黒石森城)

宇江城(ウエグスク)跡・観音堂

登武那覇城(トンナハグスク)跡

兼城御嶽・具志川間切蔵元跡

21日

波の上宮

琉球八社の一。沖縄一宮。詳細は後ほど。

←とりあえず、何かを練習中の巫女さん。はあはあ。

26日

ライブハウス・モッヅ

本日はえらい人をお送りして、その足で那覇空港から北谷・アメリカンビレッジのライブハウス・モッヅへ。カラビサのライブ「カラビサ劇場」を観覧してきたのでちゅ。

←こんなんですわ。

27日

渡名喜島第一次調査を敢行。集落はフクギ林に囲まれた美しいたたずまいである。これは戦前・戦中のサイパン、パラオからの仕送りによるものという。サイパンで当時の島民の四分の一ぐらい死んだということである。その後はソテツ地獄だそうである。

四トゥン(四殿)

この島では「三年回し」で一回(一年おき、になるという)シマノーシ(島直し)が行われるんですわ。豊年、大漁、健康、航海安全の祈るということであるが、七人の神女(かんじゅな)が五日間、毎朝ノロヤー(のろ家)に集まり、潮の満ち干に合わせて四か所の各トゥンに「とぅんにんじゅ」とともに礼拝して歩くという。

この順番でいいのかどうか、もし過てばせっかくの「シマノーシ」を逆向きにしてしまうことになるが、とりあえずウェーグニドゥン、クビリドゥン、ニシバラドゥン、サトゥドゥンの四殿を回った。ぎぎぎ。

カイヤ跡

「仮屋」跡である。首里王府のやつらが年貢の取り立てに来て泊まっていったところだそうです。

里遺跡

サトドゥンのあたり。グスク時代(12〜15世紀の居住跡地であったという。当時の遺品は渡名喜歴史民俗資料館で見ることができる・・・が、資料館は施設が壊れて危ない(台風で壁が落ちたということだ)というので無期限休館中。非道なり。里遺跡から西に降りると放棄された棚田と思われる地形が続き、その途中に湧水を湛えた一画があって、水田(ミーフーダ)と呼ばれる。里殿で使う神稲は今もここで育てるらしい。

入砂島

米軍射爆訓練場となっている無人島。来月、日米共同島嶼上陸訓練をすることになっていたのに、チュウゴクに配慮?して中止になった(※)。NHKドラマ「美ゅら」(サザエ同様、ちゅらも敬称略)のオープニング画像になった、というのが売り。

※その後、岡○副総理が止めたことが報道されている。売×奴のそしりも当たらずとは言えまい。

イェーンシジ

入砂島の神が渡海してくる岩ということである。確かに神威びんびんたるものあり。近くでウミガメが潜っているの見た。

←すばらしい風景。この直線上に入砂島あり。

アーラ墓

渡嘉敷人を葬った、という伝説であるが、おそらく風葬墓ならん。今は中は埋められている。

タレーマ墓

多良間びとを葬ったという伝説であるが、おそらく風葬墓ならん。人骨のところに到れぬように小さな石を積んである。

その他、カーシリ(川尻)のヌーチュヌーガ御嶽竜宮御嶽、あまんじゃく(旧海岸路)、ゆーし(地割制度遺跡)、島尻毛など。

←夜になるとメインストリート?にフットライトが灯され、幻想性を高めるのである。沖縄は街灯の少ないところだから、こんな離島に街灯があるだけでも驚きだが。

28日

渡名喜島から帰ってきました。その足で奥武島公園へ。護国神社、沖宮、世持神社のコンボに詣り、それから本日が最終日の「沖縄産業まつり」を見てきた。たくさん食った。旗頭行事(ガエイ)やら米軍のビッグバンド・ジャズやらいろいろ出し物もやっとりました。

 

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