沖縄観光記4 (起:平成24年11月2日(金)) 目次へ 平成24年10月へ
さすがに涼しくなってまいりましたが、まだまだこのページはおえらがたには見つかっておりませんよ。ひっひっひ。
←鍾乳洞行くよ。
平成24年11月
1日
しごとで名護に行き、沖縄紅茶の試飲会に出る。うまかった。
2日
県立美術館
1918年生まれ・現役の沖縄の写真家・山田實展「人と時の往来」を観た。山田は那覇出身、シベリア抑留者で、戦後昭和28年に沖縄に帰って写真屋を開業した。シベリア抑留の経験が前面に立つこともあり(展覧会編纂者も沖縄戦云々を言うことができないのである)、また戦前をよく知っていることもあって、サヨクたちにいじくられていない沖縄の人の感性がうかがわれてよかった。
写真を見ていて、1960年ごろまでに沖縄の人たちは、歩き方が違う感じがしました。いわゆる「足の裏を見せて」歩く歩き方の人がいましたなあ。
3日
宜野湾でタコライス食った。(>_<)。。。。今度食うときは無いと思う。
ライブハウスk−mindで「アリア+国吉亮×サラサジ アコースティック・ライブ」というのを鑑賞してきましたわ。国吉亮を観たかったのだが、ほかのもよかった。よい拾い物しました。バイオリンとギターというのはステファン・グラッペリとジャンゴ・ラインハルトを彷彿させるわけだ。
4日
ガンガラーの谷・玉泉洞
こういうふうにすると本土からの観光客は喜んでくれるのかー――と感じ入りました。書割の向こう側を想像させぬこと。沖縄以外でもそうか・・・。洞窟崇拝施設、縄文住居遺跡などは佳い。
玉泉洞は20年ブリぐらいに行ったのですが、20年前のすばらしい記憶どおりすばらしかった。観光洞窟だから歩くの楽だし。
←玉泉洞(の一部)。
←ハブショー。ハブラブガールのみなさん。
激しい雨が降ってきたので、予定していた港川フィッシャー遺跡、具志頭城は省略して、八重瀬町立具志頭歴史民俗資料館へ。港川人、具志頭の民俗・歴史について学ぶ。また沖縄戦関係資料をじっくり見てしまう。それから地下展示室にて、謝花昇関係。これも人物紹介をじっくり見てしまう。沖縄の戦前戦後史に登場する人たちが沖縄倶楽部(謝花らの創設した自由党系の政治等結社)でつながった。汗水節もひやみかち節も沖縄倶楽部からの流れのどこかにつながっているのだ。
雨激しく、帰りは車壊れるのではないかと本気で心配した。台風17号被害でガムテープなどで補強しているのですが、もともと地力の無いやつなので。
5日
夫婦瀬公園
那覇の夫婦瀬(ミーフゼ)という岩場は以前は海中にあったが、今は埋め立てられて陸地となった。若狭の「夫婦瀬公園」の中の岩はその瀬(岩場)の名残である。
―――というので、夫婦岩マニア(九州、瀬戸内、山陰、北陸、東北、東海に大小二つの「立神」型の岩が並ぶ「夫婦岩」を追うマニアである。夫婦岩には海岸型と山中型とある。「陰陽石」というかたちになっているものもある)であるわたくしは早速本日のしごとがえりに、闇の中を調べて来ました。・・・結果、悲しいことに、「夫婦瀬」は多数の岩から成っており、「大小二つ」の岩から成る「夫婦岩」ではありませんでした。(T_T)
沖縄にはほかにも数か所、「夫婦岩」といわれる場所があるそうなのですが、これらはすべて「二つの岩石」型ではなく、「仲の冷え切った夫婦を一晩そこに置いておくと翌朝にはお互いに慈しみあうようになっている岩礁」の意です。「夫婦岩」を信奉する北九州の海人族とは関係ないみたい。
6日
いろいろウツウツするので帰路、儀保から平良を経て前田高地をふらふらと歩いて帰ってきた。距離的なこともさることながら、有数の激戦地でコワいところを、夜、とぼとぼとどこらへんを歩いているのかもわからず歩いてきたのである。沖縄は街灯というものが無いから、ほぼ闇。森や茂み、開発中の空き地やトンネルや御嶽がありました。冬近く寒いこともあって途中からずっと体の震え止まらず。やばいかも。
10日
名護にて所用を果たした後、瀬底島へ。
天然記念物・塩川
淡水と鹹水が混じっているらしいのですが、たいへんきれいな水であった。オイベあり。背後に洞穴あり。泉(ガー)かあるいは風葬洞穴と思われるが判明せず。知り合いと遭遇。
神威びしびしたるものあり。裏手の森深し。中の道を進んでみたが、そのうちいかにもハブすけの出そうな叢になったので退却。
「琉球国由来記」巻十五によれば、本部間切・瀬底村には
・ヨネフサキ嶽
・アラサキ嶽
・カネオツ森
・メンナノ御嶽
の四イベあり。すべて瀬底ノロの所管とさる。そのうちどれに当たるものかは判然とせぬ(メンナ御嶽のみは「海神」らしいのでヒヌ神ではないのは明らかだが)。
瀬底巫(ノロ)は島外の邊名地村・西森、石嘉坡村・前之嶽、健堅村・イシヤラ嶽も所管していたというから、相当の実力であったのであろう。
土帝君廟
土帝君信仰は、なんとか親雲上がチャイナ使いに行った帰りに持ち帰ったという。ほかのところでも土帝君祠を見かけるが、瀬底のはよく古式ととのい、本殿・拝殿・神庭(アシャギ)が直線上に揃って石垣に囲まれた美しいもの。史跡に指定されている。まわりは森深く、夜中こんなところに来たら次元のはざまに入り込むこともありうるレベル。
現在、瀬底島内に泊まっています。風の音すごく、とにかく暗い。さっきまでは星が少し見えたが、今は恩納あたりの灯りが少し見えるだけだ。
11日
本日も名護にて所用を果たした後、うるま市石川多目的ドームへ。
第98回県知事杯争奪・秋の全島闘牛大会を観戦。
オモシロかったです。そして、非常に心理的なゲームであると認識しました。相手が粘ると強いウシもイヤになってくるみたいです。
優勝旗争奪戦
・軽量級 ○闘将☆メカ − 金功重機白王 これはオモシロかった。史上に残る名勝負、となったとのこと。
・中量級 ○闘将ハヤテ − 古堅モーターズ号 ベテランモーターズ号が敗れた。
・全島一 荒風号 − ○東山優武勝 荒風優位と見えたが20分経ってもうめんどうくさくなって敗退した感じ。
その後、同じ石川の石川野球場で開催の「ぬちぬぐすーじ音楽祭」を鑑賞。昨日はハコさんも出ていたのですが、いろいろ所用で昨日は来れなんだ。
「ぬちぬぐすーじ」とは、戦後、小那覇舞天(ブーテンさん)が収容所を回って「ぬちぬぐすーじさびら」と現代でいうコント、講談の類を開催したことにかんがみてうるま観光協会が開催したものである。「ぬちぬぐすーじ」は「命(拾い)のお祝い」の意。「さびら」は「しましょう」。舞天は「今度の戦で4人に1人が死んだ。しかし3人は生き残ったのだ。命拾いのお祝いをして、復興をはじめようではないか」と呼びかけたということである。
ちなみに舞天が(今でいうプロデュースをして)売り出した石川出身の4姉妹が沖縄芸能史上に名高い「4シスターズ」である。もちろん沖縄初、我が国でもかなり早い時期のガールズグループ。本日4人ともご出場なされ、歌・インストをなされた(踊りはさすがにもうきついのか)。島唄すばらしかった。踊り出すやつだいぶ出た。
夕方、会場をうろついているコジキ女がいて、どこから紛れ込んで来たのかなあ、と思ってみていたが、舞台に上がると古謝美佐子さんだった。
最後は元ふきのとうの山木康世が出てきて「風来坊」を歌っていきました。ふきのとうはどうでもいいが「風来坊」という歌そのものにはお世話になった。平成11年の初夏からのウツで苦しんだとき、秋の初めに小田原の田舎道を「風来坊」を歌いながら泣く泣く歩いていたのを思い出す。なぜ小田原に行ったのかとかはまったくわからぬ。このときのウツがこれまでで一番つらかったですわー。とりあえず岡本全勝さんにはお世話になりましたのじゃ。
12日
本日の観光はこちらを参照。
14日
シュガーローフ
沖縄戦屈指の激戦地・シュガーローフ(慶良間ちーじ・安里52高地)に登ってみた。新都心の一画、真昼間であったが、そこだけまったく別の世界。なお鬼哭啾啾と聞こゆるがごとく、さすがのリアリスト肝冷斎も気分重くなって今に至る。小さな丘だが、その斜面に米国海兵隊の戦死者だけで2500、日本軍・住民にはそれ以上の死者が斃れたというのである。死者のほか、海兵隊側に重度の精神異常を起こした者が1000人以上を数えたというだけで、その苛烈思いやるべし。
頂上にペットボトルに挿した一輪の花が飾られてあった。
16日
県立博物館にて企画展「Okinawaから沖縄へ」を見てきた。サヨク的な物言いも多く見受けられたが、全般にわかりやすくてよかったです。野良朝苗というひとは大きな仕事をし遂げたひとだから尊敬はするが、いまだに聖賢のようにいうのはいかがなものなのだろうか。瀬長亀次郎が一つの象徴であったことは理解できる。
沖縄県民のご苦労にはいつもいつも頭が下がるが、返還・復帰に至るまでの昭和天皇、吉田茂、岸信介、佐藤栄作、下田武三・・・らの苦心も思いやるべし。この中の誰か一人でも大きな間違いをしていれば、米国・中華民国の共同統治(日本の潜在主権なんて無しで)になって今に至っている可能性さえあるのであるから。
なお、一階スペースでカンボジアの虐殺博物館の展示の一部が紹介されていた。
17日
第一次宮古調査を敢行した。今回は宮古島の北側〜西側が中心である。
O島
数十年前、故・寺山修司先生の日本アングラ紀行である「花嫁化鳥」の中で紹介され、わしは若い少年の心で激しい憧憬を感じた東シナの孤島O島についに到達。昼間の風と雨は激しく、決して招かれていない感はあったが、行けるところ(行ってもいいところ)には行ってみました。晴れていたら美しいサンゴ礁の島であろう。
完全に秘密になっている祖神祭(ウヤガン祭)とか海賊船の宝物の埋蔵場所とか島一周道路の途切れた理由とか、いろいろ想像しているところはあるし、また、この島は「秘密の島」ではあっても沖ノ島のように「お言わず島」(その島で見たことを外で言うてはならぬという掟のある島)ではないようであるので、考えるところを言おう、と思ったが別にみなさん興味ないでしょうから止めておきますわ。
←雨にけぶるO島
島尻
パーントゥ・サトプナハ(「食ぬ人里願い」)で名高い島尻部落へ。パーントゥ・サトプナハは来訪神パーントゥ(「食べる人」というのは一部の説で、一般には「妖怪」と解されているそうだ)による泥塗りの厄除けがマスコミでも紹介されて有名だが、それに至るまでの各種儀礼はいまだに秘密のままであるし、また、ここにもO島同様の「祖神祭」があり、この際に「ウヤガン」に扮する神女たちも、正面から見るとおメメがつぶれるとされ、詳しいことは知られておらぬ。
パーントゥのウヤ・ナカ・フファの三仮面漂着伝説のクバ浜、元島、ヌマレガーなど観察した。ついでに、三仮面のミニチュア買ってきた。またカーゴを持って行かねばならぬ・・・◎◎◎
狩俣
平家落人伝説あり。今回はユズマヌス(「四島の主」)の墓を観察。四島とは、O島、島尻、狩俣、池間のことである。
大嶽城跡
島の真ん中、野原岳のすぐ南にある。洞穴もたくさんあった。構造線上にある。
平良綾道(ぴさらあやんつ)
平良の市街地にある古い遺跡群。今回まわれたのは、恩河里之子親雲上の墓碑、知利真良豊見親の墓、仲宗根豊見親の墓(←不思議な空間)、あとんま墓、漲水御嶽(←三輪山型蛇神神話あり。ネコがたくさんいた)、宮古神社。
←漲水(はりみず)御嶽
このほか、島尻のマングローブ林、池間島、古本屋(20万冊の所蔵あり)など。
18日
宮古島総合博物館
入ったところにパーントゥ像あり。パーントゥは「一匹、二匹・・・」と数えるらしい。御嶽の数々など勉強になった。もう少し絞って展示してくれれば、と思うが・・・。
久松五勇士顕彰碑
これだけは見て行こうと思ったので見た。久松の静かな港のほとりの丘の上にあって、静かな久松の海を見下ろしていた。
←久松五勇士顕彰碑。この小さなサバニで黒潮渦巻く海を越えたのだ。
大泊御嶽
不思議な空間。
久松みゃーか
みゃーかとはぶさぎのこと。ぶさぎとは巨石墓。
川満の御嶽群
今回は、川満マングローブ林に隣接するウプカー(大川)御嶽、ヌーズマ御嶽(「ズ」と表記した文字は実際は「ス」の半濁音。「ヌーズマ」は「乗り残し」の意とされ、明和の大津波の際に波に呑みこまれなかった丘が御嶽となっているのである)、喜佐間御嶽(琉球国由来記等にも登場するユイショある御嶽である)までしか回れなんだ。
喜佐間御嶽では、参道にて<イマシメ>人に出会う。本人も高齢の女性であるが「今日は川満のおばぁたちがウガみをしているが、それを見に来たのか」との<イマシメ>の言葉であった。参道途中で樹木がトンネルのようになっている場所があり、その向こうを左に折れたところから人声がする。あそこを左に曲がれば「すごいもの」が見れそうな気がしたが、ぐぐ、とこらえてそこで拝礼して戻ってきました。わしの戻りを見届けて、<イマシメ>人は参道の外れの軽トラックに乗って去っていかれた。
拝所は山開きの日以外男子禁制とのことであるが、拝所の前まではいいのではないかと思っていたのである。次回はウガんでいないときに(そっと)来ますね。
東平安名崎
マムヤの墓などを見て帰る。
そのほか、来間島、赤間宮など。
天皇皇后両陛下御奉迎
那覇に戻りモノレールももどかしく、奥武山公園での両陛下奉迎のイベントに参加。提灯はもう余っていなかったが、日の丸の小旗もらって両陛下へのお礼と万歳、また君が代の斉唱に参加。涙にじんでくるので不思議。旗頭とか哈日船とか爆竹とかやっておりました。両陛下も御宿所から19:55〜20:00の間ご覧くださったよし。
←わんさか集まっていた。
23日
昨日の夜、石垣まで来た。暑い。
とりあえず今日は川平湾、川平観音堂のみ。川平湾は二十数年ぶりである。ふと見上げると於茂登岳が霧の中にあり、度胆抜かれる。
←川平(かびら)観音堂。
夕方の便は波の影響で欠航の可能性がある、というので、夕方まで借りていた石垣のレンタカーを二時間で返して波照間行き高速船へ。「よく揺れる」と評判だったが、確かによく揺れたが当方は船の揺れに鈍感なのでそれほど困りません。
○コート盛
○日本最南端の碑 周囲にヤギ多し。
←日本最南端(は実は沖ノ鳥島。現在は有人島最南端)
○高那崎断層
○シムスケー(古井戸) 清冽な泉である。しかし蝶が・・・。コワかった。暑いのに、すごい背筋というより腰のあたりかゾクゾクと・・・。これ以上は言いません。いいや、言えません。
○下田原城跡 波照間は名所にもほとんど案内板が無いのですが、ここは国指定史跡なのでさすがにあった。国指定なので整備されていると思ったのですが、植物繁茂してゲゲゲ状態。しかし、郭の構成などははっきりしており、名も伝わらぬ按司の力の確かさを垣間見せる。なお、裏手にすごい変なものが。これもそこそこコワいが、ゾクゾクはしない。何であったかは言いません。ジモ民に「そんなものまで見たのか」と思われるとコワいので。
←この奥はもっとゲゲゲ。史跡名は「下田原城」だが、「ぶりぶち公園」という。
○下田原貝塚・大泊浜貝塚 発見できず。かわりに付近の海岸に出、西表の島影(意外なほど近く感ずる)見上げながら彷徨う。
←海は荒海であった。黒潮支流があるらしい。向こうは西表。
○大東亜戦転進記念碑 これについてはきちんと云うておかねばなりません。
昭和20年、フィリピン戦線にあって孤立した海軍魚調隊24名に対して、本土方面への「転進」命令が出た。隊員は米軍の追撃を受けながらルソンの山中を横断し、東岸に到達。このとき生き残っていたのは9名。9名は海岸の木を伐り、椰子葉を帆に、自分らのぼろ服を裂いて索具にし、イカダを組んでわずかな食糧と水を積んで黒潮に乗り出した。途中臺灣東岸を経、数か月を経てついに波照間島に到着。このとき生き残っていたのはわずかに4名。村民に救助され、沖縄戦の後ようやく本土に復員した。
このことを思い、戦後、生き残りの隊員と遺族らが波照間住民の協力を得て立てたのがこの碑である。碑面には
我がカヌー怒涛の中に窮まりて漂う海に星一つ見ゆ 元海軍少尉 石川茂只
とあり。石川少尉は山梨の人という。
ほんとうは教科書に載せるような話なのだが載せるひともいないので、みなさんよくよく自分で覚えておいてください。
←集落の中で大切にされている。
←波照間島西南方向。この彼方にフィリピン。そして、「ぱいぱてろーま」(南波照間島)といわれるまぼろしの島も・・・。
○オヤケアカハチ生地碑 ほんとかなあ。
○長田御嶽 波照間の御嶽・拝所はたいへん厳しい山止め禁忌のもとにあるため、どこにあるのかさえわからないのだが、ここだけ観光地図にも出てくる。祖先崇拝とは関係無いものなのであろう。
○星空観測タワー 初夏に南十字星が見え、盛夏には天の川(テンガーラ)が瞭然と見える波照間島の天文観測シーンを代表する施設ですが、夜のツアーに参加したがあいにくの雨で星見えず。雨が無くても今は十日月、晴れていても星は月明かりで見えぬ、と硬派の解説員に説明受けた。月齢も確認せずに星を見に来るのは情けない、みたいな解説でした。いまいち人気出ないのもよくわかる。わたしは同じタイプなので、彼の解説は好きですが。「南十字星の見える島タオル」と「日本最南端の証」を買ってきました。周囲にヤギ多し。
24日
○ニシの浜 漢字を宛てると「北の浜」になります。高那崎断層線の「北」側にあるので島の西北にありますが、「ニシの浜」と呼ぶ。
○ペーの浜 こちらは「南の浜」になります(「南(ミナミ)の浜」は別にあり)。ニシの浜につながっていますが、断層線の「南」側にあるのでハエの浜→「ペーの浜」と呼ぶ。
←これはペイの浜
○毛崎(もうざき) ペーの浜のさらに南側の岩礁地帯。渡り鳥を見た。
○高那崎 すごい疲れた
○波照間飛行場 現在、飛行機の便無し。
○学童慰霊の碑(南風見田の碑) 疎開中に小学生六十数人がマラリアで亡くなった。疎開(20年4月〜)をさせたのがおそらく陸軍諜報部か、とされる山下軍曹(偽名であるらしい)で、国の命令ではなかったということである。
○祖平の坂 王府に年貢を運ぶ途中で難破し、チャイナに救われた祖平宇根というひとがあって、彼が帰国時に千里眼にて波照間島のことを見ることのできる女から受けた風水上の意見にしたがい、帰島後、波照間島の風水を改善するため、港と名立の村を結ぶ新しい道を作った。・・・のがこの坂という。坂の途中に、王府への貢納物を集めたというイノーサヒ、びっちゅる御嶽(本島でいうビジュルさまを祀る。いわゆる陽物石。かなり長細いのが祀られていた。)などあり。
←イノーサヒ
←びっちゅるさま
以上。とにかく今日は一日中歩いた。総歩数39000余。なのであわもり飲んで寝ました。夜中に起きてしまった。明日は船出るかなあ。
25日
←さらば波照間。ニシの浜。
晴れたので波照間から帰ってきました。とりあえず石垣で一時間ほど時間があったので、
明和の大津波のことも展示中。
←近くに蔵元跡、人頭税廃止百年記念碑などあり。明和の大津波でここもやられたという。
←西表の獅子頭
←石垣観音堂の鬼面。もと四面あったが一面盗難さるという。
○美崎御嶽
拝んでいるひといたのでそっと寄ってそっと引き上げた。見張り?のおばちゃんに睨まれた。
・・・に寄って、本島へ。
○那覇市歴史博物館
企画展「那覇の神社・寺院」を観覧。「沖宮は戦前安里にあった」ということだが、安里八幡宮と一緒にあったこと判明。また、廃藩置県(この博物館では「廃琉置県」と言わねばならぬようだが)後、秩禄を失って琉球八社・同神宮寺がみなボロボロになっていたことも写真でわかった。沖縄戦を待たずにほとんど崩壊しかけていたようです。
○儀保・黄金御嶽
神威強し。儀保周辺の地主神、火の神、慈母観音などを祀る。末吉宮、首里城、そしてかなたに那覇の街と東シナ海が見えた。
琉球八社の一、末吉宮に参拝。末吉公園の杜を通り抜けて、到着したのが日没のころ。誰もいない境内で御参拝させていただく。その後、夕闇迫る中、子の方さまや付近の拝所を訪れる。どんどん暗くなるし、あちこちで小動物動くし、かなりコワい。ぞくぞくしてきたので帰路を急ぐが、末吉の杜を出たころはもうとっぷりと日暮れていた。それにしても末吉公園の森、那覇市市街地にあり、かつ冬というのに度胆抜かれるジャングル度であった。
末吉宮の由来等については別途。
←度胆抜かれる造り。旧国宝(沖縄戦でほぼ滅失)。
←階段を昇って拝殿に至る。琉球固有建築ということだが、高い社殿は古代の出雲大社を彷彿とさせる。裏は岩山。
←那覇方面。
○玉城朝薫生誕300年記念碑
公園内にあり。
←明日いい日になりますように・・・(無理かなあ・・・)。
30日
昨日は名護でイルカ食った。今日は昼間からチュウゴクの海洋政策について元自衛官のひとの講話を聞き、午後はベンチャーのひとたちの講話を聞き、それから
に寄った。那覇港の入口(上流からみて右岸)にあり、かつて那覇港を守るために造られた要塞で、倭寇や薩摩の那覇上陸を阻止したという。いまは石塁の上に拝所と海上保安庁第十一管区の施設があり、今日もわれらの海を護っているのである。「琉球国旧記」巻一にいう、
往昔那覇邑、有王農大親者、常遊此、以観光景。亦恐為賊兵見掠劫、高築雉堞、以備防禦。
往昔、那覇邑に王農大親なる者ありて常にここに遊び、以て光景を観る。また賊兵に掠劫せらるを恐れ、高く雉堞を築き、以て防禦に備う。
むかし、那覇の町に王農大親というひとがあって、何度もこのあたりに至り、その風景を見て感じ入った。また、倭寇などの賊が那覇に侵入するのを恐れて、高い城壁を築き、防御に役立てようとしたのである。
その後、康熙三十三年(1694)に暴風と波浪によって破壊され、翌年から修理して丙子年(1696)に完成したということである。
←この丘が三重城。中央は海上保安庁の電波灯台。向こうはもう海。
さて、明日から十二月ですなあ。