わが人生、そろそろ壇之浦・・・。
明日は金曜日だが・・・キツイものとなるようでちゅー。
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岡本全勝さんが「チュー庸」について触れているので、触発されて「チュー庸」の一節を引いてみます。
ちなみに、「チュー庸」の一書は(朱子の章句(章立て)で)三十三章、「チュー庸」の徳について論じ「道」について論じているうちに「誠」を論じ、決して長いものではないし文章自体はそんなに難しいものではない、のですが、とにかく難しい。
おいら肝冷ネズミは
「こんなの勉強してもわからないでちゅー」
と二十年以上前に放り出してしまったんでちゅー。
今回、久しぶりで、終わりに近い第三十二章を読んでみます。
唯天下至誠、為能経綸天下之大経、立天下之大本、知天地之化育。夫焉有所倚。
ただ天下の至誠のみ、よく天下の大経を経綸し、天下の大本を立て、天地の化育を知る。それ、いずくんぞ倚るところ有らんや。
朱子の注を訳してみますと、
経と綸はどちらも糸を治めることをいう。「経」はその糸口をつかまえて分けていくこと、「綸」は他の糸と並べて撚っていくことである。(後の方の)「経」は「常」(つね)のこと。「大経」は(常に守らなければならない)五つの人倫のことなんじゃ。「大本」とは人間がその本質としている「性」の全体。(ふつうのやつではダメだが)聖人の徳だけは、極めて誠で妄りが無い。このため、五つの人倫はすべてそうすべき当然のまことを尽し、すべて天下・後世の模範とすることができるのだ。(以上から、)「それを経綸する」とは、その本質たる性の全体に、一すじの毛ほども人欲の偽りをまじえないものである(べきなのだ)。そして、天下の道(いろんな物事の動いていく道筋)は、千変万化であるけれど、みなそこから出てくるものである。「それを立てる」、とは、天地の化育(天地が万物を生み育てる)という動きの中で、極めて誠で妄りが無いということと、はっきり明示されなくても合致している(「黙契」)ようにすることをいうのである。(「知る」と言っているが)これはただの聞いたり見たりして得られる知識の範疇ではない。すべて至誠にして妄りの無いことの自然のはたらきなのである。これは、何かの物事に依存してはじめてできる、というものではない。(なので、いずくんぞよるところ有らんやと言っている)
むむむちゅちゅちゅ・・・。
もともと戦国時代のひとは、
世界という大きな糸をつむぎ撚り合わせることができるのは、世界一の誠実さ、だけである。天下の大きな木の根元を立て、天が生み地が育てるという原理を知ることができるのもそうだ。そいつは何ものにも依存することはない(独立したものだ)。
という程度のことを言っているだけだと思われるんですが、なにやら難しくなりましたでちゅー。
ところで、この戦国時代のひとは、なんとなく、「老子」に思想も口ぶりも似ていまちゅね。そして、朱子の注は、どうやら幾層にも及ぶ佛教の論理に強く影響されているようです。一方は古代氏族制の崩壊期、もう一方は近世宗族制の形成期にあるはずで、極東の島国にいる我々には想像もつかない世界観の支配のもとに何か言っているんですね。ちゅー。
肫肫其仁、淵淵其淵、浩浩其天。
肫肫(しゅんしゅん)たるかなそれ仁、淵淵たるかなそれ淵、浩浩たるかなそれ天。
実に丁寧なものだなあ、仁の思いは。深く静かなものだなあ、川の淵は。ひろびろとしたものだなあ、大空は。
朱注では、順に「経綸」「立本」「知化」のことを言う、そうです。
苟不固聡明聖知達天徳者、其孰能知之。
いやしくも固(まこと)に聡明聖知にして天徳に達する者にあらざれば、それ孰(た)れかよくこれを知らん。
ほんとうに聡明で聖なる知を持ち、天と同じぐらいの徳を持っている者でなければ、いったい誰がこのことを知っているだろうか(。そういうひとだけが知っているのだ)。
朱子に言わせると、この章は「聖人でなければ至誠の道を尽すことはできない。ここまで行けば最高なので、みんなこれを目指そう」と言っているのだそうでちゅー。
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「中庸」第三十二「天下至誠章」。うーん、相変わらずまいってしまいました。どうでちゅか。これでも「チュー庸」の勉強をしたいと思いまちゅか。「ああこんなの読まずに早く寝ればよかったでちゅー」ではありませんか。やっぱり休前日にすべきだった。でもシゴトのこと考えているよりはましか・・・。
ただ天下の至誠のみ、よく天下の大経を経綸し、天下の大本を立て、天地の化育を知る。
「聖人」とか「人倫」とか「黙契」とか持ち出さずに、ここだけ素直に読んだらそこそこいいコトバなのになー。
また、揮毫を求められれば、
浩浩其天
だけ書いておけば、この章の思想まるごと書いたのと同じように読み取ってもらえるから(知っているひとには、ですが)便利でちゅー。