令和2年8月21日(金)  目次へ  前回に戻る

だいたい春や秋、初夏などの快適な季節にもやる気の無いモノたちに、この暑いのにシゴトさせる方が間違っているのは確かだ。

夏は終わって初秋、明日ぐらいは涼しくなるか。涼しくなって来週からシゴトもなくなるとすばらしいが・・・。

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暑いとシゴトにならず、大失敗をしてしまうことがあります。

嘉靖乙卯年、西暦では1555年に当たりますが、この年の夏、

倭三十六人抵南郭外之桜桃園。

倭三十六人、南郭外の桜桃園に抵す。

倭寇の一派が三十六人で、南京の南城の外にある桜桃園という公園に逃げ込んで抵抗したことがあった。

南京兵部は、

遣官兵数百人、帥以指揮蒋欽、朱湘禦之。

官兵数百人を遣り、帥いるに指揮の蒋欽、朱湘を以てこれを禦(ふせ)がしむ。

軍の兵士数百人を遣わし、これを部隊長の蒋欽、朱湘にひきいさせて、倭寇を鎮圧させた。

ところが、

時天暑。

時に天暑し。

この時の天候はとにかく暑かった。

このため、

士皆解衣甲避暍廬中、若大樹下、官袒靫呼廬飲、不慮倭之猝至也。

士、みな衣甲を解きて暍(えつ)を廬中、若しくは大樹の下に避け、官、靫(ゆぎ)を袒(はだぬ)ぎして廬に呼びて飲み、倭の猝(にわ)かに至るを慮(おもんぱ)からざるなり。

「暍」(えつ・かつ)は「暑気あたり」「熱中症」のこと。

兵士らはみんな服やかぶとを脱いで熱中症にならないように、小屋の中や大きな木の木陰に入り込み、部隊長も背負っている矢の入れ物を外して小屋の中で飲酒していて、倭寇どもが突然やってくるなどとは思いもしなかった。

そこへ、

以数人衣丐者服、若荷担者来。

数人を以て、丐者の服を衣(き)、若しくは荷担する者、来たれり。

数人ぐらいづつ、コジキのみなりをしたやつらとか、荷物運びの人夫などが通りかかった。

官兵問、倭至乎。

官兵問う、「倭至れるか」と。

兵士らは訊いた。

「おい、倭寇どもは近くに来ておるのか?」

すると、そいつらは

遠未至。

遠く、いまだ至らず。

「まだまだ遠いです。しばらくはここらには来ますまい」

と答えた。(←普通に会話できていることに注意願いたい。)

それで、兵士らは

益弛而不為備。

ますます弛みて備えを為さず。

さらに緩んでしまいまして、対応をしようとしなかった。

ところが、そのコジキや荷物担ぎのやつらがだんだん増えてきて、

已数十人突持刃大呼而前、其便旋如風、士袒跽而受殲。

已に数十人なるに、突(にわ)かに刃を持して大呼して前み、その便旋風の如く、士袒跽(たんき)して殲を受く。

「跽」(き)は「跪」と同じで、「ひざまづく」。座ったまま、ということです。

数十人まで増えたところで、突然刀を手にして大声をあげて突進してきた。その行動はまるで風のようで、兵士らは肌脱ぎして膝をついたままで、皆殺しになってしまった。

こいつらが倭寇だったのだ!(一体何語で大声をあげたのか、知りたいところですね。)

「倭寇だ! 倭寇が来た!」

「うわー」

とほかの兵士らは大混乱に陥った。

ところで、またこれが如何にもチャイナの軍隊らしいことですが、

先是二官掘大坎、深丈濶数尺者営後、防卒之奔。

先にこれ二官、大坎の深さ丈、濶(ひろ)さ数尺なるものを営後に掘り、卒の奔(はし)るを防がんとす。

事前に二人の部隊長は、深さ3メートル、直径1メートルぐらいの大きな穴を、駐屯地の背後に掘っていた。兵士らが逃げるのを防止するためである。

そういうマニュアルになっていたのだと思われます。

至是、奔者皆堕坎中、累累積幾満。

ここに至りて、奔者みな坎中に堕ち、累累として積みてほとんど満つ。

この状況になると、兵士らは争って逃げ出し、逃げ出した者らはみなこの逃走防止用の穴に落ちて、積み重なって穴いっぱいになってしまった。

穴は、目的どおりの効果は発揮したのだが・・・。

この様子を見て、

倭不及刃、取所貯火薬傾其上爇之、須臾皆糜爛死。

倭、刃に及ばず、貯うるところの火薬を取りてその上に傾けてこれを爇(ねつ)し、須臾にしてみな糜爛して死せり。

「爇」は草を撚って作った「導火線に火をつける」ことです。

倭寇どもは刀を使わず、いつも持っている火薬を取り出して兵士らの落ちた落とし穴の上から撒き、火を付けたので、兵士らは一瞬のうちに焼け焦げて死んでしまった。

こうしておいて、

倭、徐徐引去。

倭、徐徐に引き去れり。

倭寇どもはゆっくりと撤収していったのである。

ああ。

二兵官、以陣亡聞。承平久、人不知兵、執殳而出、声嘶股戦、勢固然也。矧将又不知兵、何惑其以卒予敵。

二兵官、陣亡を以て聞す。承平の久しき、人兵を知らず、殳(ほこ)を執りて出ずれば、声嘶(しわが)れ股戦(おのの)くは、勢いもとより然るなり。まして将もまた兵を知らず、何ぞ惑いてそれ卒を以て敵に予(あた)うるや。

二人の部隊長の戦死の報は、皇帝のお耳にも届けられた。長く平和に馴れてきたので、人が戦争を知らず、ほこを手にして出動するときには、声がしわがれ、股に寒ツボができるのも仕方がないことだ。それにしても、将校もまた戦争を知らない。どういう発想で、わざわざ(穴を掘って)兵士らを敵に献上してしまったのか。(これが名誉の戦死として賞賛される戦い方なのか。)

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「客座贅語」巻二より。この事件、一度はじゃっぷのみなさんにも教えてあげなければ、と思っていたのですが、このボリュームだと休前日でないと無理なんで、やっとご紹介できました。ああよかった。もう思い遺すことはもう少しになったぞ。

著者の遯園居士・顧起元は嘉靖四十四年(1565)の生まれですから、この事件のことをオトナたちから昨日のことのように聞いていたに違いありません。

「承平の久しき、人、兵を知らず」。しかし、香港、南沙、尖閣・・・、町なかの普通のひとたちはもうみんな気づいている。なのに、「木鐸」のみなさんたちはコロナの危険は煽っても、こちらの危険にはいつまで口を閉ざしているのカナ?

 

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