令和2年8月11日(火)  目次へ  前回に戻る

「チャイナ共産党チベット侵略の証」パンダと違って、ゾウさんは政治性がないのでコドモ向きといえよう。

さすがに今日は暑くて年寄りカメには更新はできないようでちゅね。

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明の萬暦乙卯年といいますから西暦では1615年になりますか、工部尚書の丁某が指揮をして、南京の古い宮城の周囲の河を浚える工事をしていたとき、

至内橋、有象頭骨一具。不知何時埋沈於下。

内橋に至るに、象の頭骨一具有り。いずれの時に下に埋沈せしやを知らず。

宮殿側につながる内橋のところまで浚渫作業を進めてきたところ、橋の下あたりから、ゾウの頭の骨ワンセットが出てきた。いったいどの時代にそこに沈められて埋もれたものか、出土状況からは皆目見当がつかなかった。

わーい、ゾウさんでちゅ。

ゾウがいたとすると御苑(皇帝の動物園)があったときのことでしょうから、

非国初、則南唐時物也。

国初にあらざれば、すなわち南唐の時物ならん。

我が明朝の初期(初代の洪武帝(と二代目だけど正史から消された建文帝)の時代、南京が国都でしたから、そのころか、そうでなければ、元や宋の前、五代の南唐国(937〜975)のころのモノではなかろうか。

と考証されました。

しかし、古きを好むひとたちが論ずるに、

南唐此橋為金水河、不宜棄死象骨於内。

南唐にはこの橋は金水河たり、死象の骨を内に棄つべからざるなり。

「南唐の時代、この橋がかかっていた場所は、金水河といい、皇居の遊楽地であったから、死んだゾウの骨をこんなところに遺棄するはずがない」

「さてさて」

「それでは国朝の洪武帝のころのものであろうか」

「いやいや」

「のうのう」

国初置象房於通済門外。有死者其骨又不応埋瘞於此橋。

国初は象房を通済門の外に置く。死するもの有るもその骨、またこの橋に埋瘞するあるべからず。

「我が明の初期は、ゾウを飼う建物は、通済門の外に設けられていたと記録にある。たとえ死んだゾウがいたとしても、その骨をここまで持ってきてこの橋のところに埋めたはずがありませんぞ」

「わいわい」

というわけで、

殆不能定其所繇也。

ほとんどその繇(したが)うところを定むるあたわざるなり。

どの説に従えばいいのか定めることがほとんどできない状態である。

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明・顧起元「客座贅語」巻九より。しかし、「南史」巻八・梁本紀下を閲するに、承聖元年(552)十二月、

天門山獲野人、出山三日而死。星隕呉郡。淮南有野象数百、壊人室廬。宣城郡、猛獣暴食人。

天門山に野人を獲るも、出山三日にして死す。星、呉郡に隕つ。淮南に野象数百有りて、人の室廬を壊つ。宣城郡にて、猛獣、人を暴食す。

天門山で野人(やまおとこ)を捕まえたが、山から降ろしたところ三日で死んでしまった。

呉郡に星が墜ちた。

淮南では野生のゾウ数百頭が出現して、住民の住宅をぶっ壊した。

宣城郡では、猛獣(トラ?)が出て、住民を食い殺した。

とあります。梁王朝末の混乱の中で一か月の間に起こった事件が記録されているのですが、その中にあるように、この六世紀の中頃でも淮水の南側、長江の北側にはゾウさんが何百頭もいたことがわかります。これは肝冷童子がコドモのメルヘンチックな目で発見したのではなくて、環境史の分野では有名な記述らしいんです。

この明の工部尚書・丁さんが発見しちゃったゾウの頭は、その時代の野生ゾウの頭骨だったのかも知れませんよ。

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昨日は肝冷斎が「龍の頭」について報告していまちたので、今日は肝冷童子がゾウさんの頭について報告いたちまちた。まあ、もともと漢字が造られた殷の時代には、「象」はどうみてもゾウさんの象形文字ですから、殷の国のあった河南地方に、文字に造られるぐらいたくさんゾウさんがいたということなんですけどね。

 

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