もう流されて行くしかないのだ。なんの思想も計画もなく、そして明日への展望もなく。平日は。
肝冷斎出奔(県境を越えたようなのでもう追い切れません!)のため弟子の肝冷童子が更新いたちまちゅ。なお、コドモなので仕事はしません。会社から呼び出されてもしません。コドモです。曜日もわからないようなコドモなんです!
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――水に流される舟のように、自由な境涯でいたいもんでちゅなあ。
と、コドモながらにうそぶいておりまちゅと、どこかのじじいが出てきて、しゃべり始めまちた。コロナ危険だから出てこなければいいのに・・・
大道汎兮、其可左右。
大道は汎として、それ左右すべし。
大いなる道は、小舟が浮かんでいるように、左にも右にも行くことができる。
「ほう。このじじい、なかなかやりまちゅな・・・」
万物恃之以生而不辞、功成不居、衣被万物而不為主。
万物これを恃んで以て生ずるも辞せず、功成れども居らず、万物を衣被すれども主と為らず。
あらゆるものはそれ(「大いなる道」)によって生成されるのだが、それはそのことを嫌がることはない。それはいろんなことを仕遂げるのだが、その状態を静止させて支配するわけではなく、あらゆるものを、衣をかぶせるように保護しているのだが、指導するわけではない。
「へー」
故常無欲、可名於小矣。
故に常に欲無く、より小なりと名づくべし。
だから、それには意志というものは無いんじゃ。だから何よりも弱く微かなもの、ということができるんじゃ。
ところが、
万物帰焉而不知主。可名於大矣。
万物、焉(ここ)に帰するも主を知らず。より大なりと名づくべし。
あらゆるものがそれ(「大いなる道」)から生まれそれに帰っていくのに、(あらゆるものは)それが何であるかを知らない。何よりも大きく顕らかなもの、ということもできるんじゃ。
以其不自大、故能成其大。
その自ら大なりとせざるを以て、故によくその大を成す。
自分では大きなものと主張しない。だから、こんなにも大きくなることができたんじゃなあ。
「なるほど。じじい、深いでちゅな」
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「老子」上篇・第三十四章より。なんとこのじじいは老子さまだったんでちゅ。ようし、おいら老子さまについて行って大いなる道について学ぼうっと。従いまして肝冷童子も本日から出奔のため、明日からはまた誰も更新する者はおりません。それぐらい何もやりたくないのです。肝冷族は、平日には。