カッパはおサルと同じ「通臂」(両腕がつながっているので手がすごく延びる)という設定なので、これ程度の昔のひとのワナではやられることは無い。
もうダメだ・・・。だが明日の夜までは現世にいることにしています。その間は健康でいたいものですね。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
現世から去るときはどの方法で去ろうかなあ。
民有五死。聖人能去其三、不能除其二。
民に五死有り。聖人よくその三を去るも、その二を除く能わず。
人間が死ぬには、五種類の原因がある。偉大な文明指導者はそのうち三種類までは無くすことができる。しかし、あと二種類は無くすことができない。
まず、
饑渇死者可去也。
饑渇して死する者は去るべきなり。
食糧や飲料水が不足して、飢え渇いて死ぬ者が出るのは、(政治の力で)無くすことができる。
次に、
凍寒死者可去也。
凍寒して死する者は去るべきなり。
住居や衣服が不足して、寒さに凍え死にする者が出るのは、(政治の力で)無くすことができる。
また、
罹五兵死者可去也。
五兵に罹りて死する者は去るべきなり。
戦争になって、五つの兵器に傷つけられて死ぬ者が出るのは、(政治の力で)無くすことができる。
「五兵」は、いくつか説があるのですが(だいたい戦術も兵器も進歩も変化もありますから、読み手あるいは注釈者の持つ時代背景によって違ってきて当たり前である)、春秋戦国のころは一般に、刀・剣・矛・戟・矢とされます。ゲンダイなら、報道支配・言論戦・法律闘争(立法含む)・アカデミズム支配・テロの五つでしょうか。「戦争で」と御読み替えいただけばよろしい。
一方、
寿命死者不可去也。
寿命(じゅめい)にて死する者は去るべからざるなり。
さだめられた年齢で老衰して死ぬ者が出るのは、(政治の力で)無くすことができない。
癕疽死者不可去也。
癕疽(ようそ)して死する者は去るべからざるなり。
腫物やできものが出来て(病気で)死ぬ者が出るのは、(政治の力で)無くすことができない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「説苑」巻十六「説叢」より。以上が「五死去三」です。われわれスグれたゲンダイ人にもよくわかる、いいコトバのような感じですね。わたしも演説や朝礼にお奨めしたいと思っているんですが・・・。
ところが、このコトバには続きがあって、それを読むと、上で「政治の力で」というコトバがを補っているのがもしかしたら間違いかも、と思えてきます。
・・・三つは去れるが二つが除けないのは何故か。
饑渇死者中不充也。
饑渇して死する者は、中、充たざるなり。
飢え渇いて死ぬ者は、ニンゲンの内部が充実しなかったのである。
凍寒死者外勝中也。
凍寒して死する者は、外、中に勝つなり。
寒さに凍え死ぬ者は、外の気候がニンゲンの内部に優越したのである。
罹五兵死者徳不忠也。
五兵に罹りて死する者は、徳の忠ならざるなり。
五つの兵器で傷つけられて死ぬ者は、(為政者の)徳が誠実でなかったからである。
寿命死者歳数終也。
寿命にて死する者は、歳数の終わるなり。
老衰して死ぬ者は、年齢の限界が来たからである。
癕疽死者血気窮也。
癕疽して死する者は、血気窮まるなり。
腫物やできもので死ぬ者は、人体の血と気が詰まってしまったからである。
まとめていえば、
中不正外淫作、外淫作者多怨怪、多怨怪者疾病生。
中の正しからざれば外に淫作(おこ)り、外に淫作らば怨怪多く、怨怪多ければ疾病作る。
内面が正しくないと、外部に邪悪な気が発生し、外部に邪悪な気が発生すると、憎悪したり不安になる機会が増え、憎悪したり不安になる機会が増えると、病気になってしまうのである。
故清浄無為、血気乃平。
故に清浄にして無為ならば、血気すなわち平らかなり。
逆に、清らかでさっぱりした心で、何もしないでいれば、血と気は平常で(健康を保つことができるで)あろう。
聖人(偉大な文明指導者)は、内面を正しくして清浄無為であるから、内部が充実し外部に負けることがなく、誠実な徳をひとびとにも届けることができる。三種類の死を去ることができるのである。しかし、他人の年齢の限界の超越と、他人の血気のコントロールはできないのである。
・・・政治の在り方論みたいなのではなく、健康思想になってしまいました。やっぱり昔のひとのコトバはこの程度か。