生きながら穴に入る喜びよ。
また来週が来る・・・。
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清の半ば、乾隆帝の時代のことです。銭鹿泉というひとがいました。もともとは浙江・山陰の生まれですが、とある役人の幕僚になって蜀の地に赴任し、そのままそこに住み着いて、成都に本籍を置いた。
自号梅花和尚、不削髪、不披緇、状貌雄傑、修髯過腹、為人豁達不羈、而豪于飲。
自ら梅花和尚と号するも、髪を削らず、緇を披(き)ず、状貌雄傑にして、修(なが)き髯腹を過ぎ、人となり豁達にして不羈、而して飲において豪なり。
自分では「梅花和尚」と自称していたが、髪を剃るわけでもなく僧衣を着るわけでもなく、すがたかたちは男らしくてかっこよく、長いヒゲを腹より下まで垂らし、人となりはひろやかで何かに縛られることなく、そして大酒飲みであった。
喜吟詠、善顛草、画梅尤入妙品、酔後落筆、逸趣横生。
吟詠を喜び、顛草を善くし、梅を画けば尤も妙品に入り、酔後に筆を落とせば、逸趣横生す。
詩を吟じて歌うのが好きで、草書が得意、梅の画を描かせれば最上等の作品を作るが、酔った後で筆を持つと、すぐれた雰囲気があふれ出す。
自謂醒時不及也。
自ら謂うに「醒時及ばざるなり」と。
酔いが醒めた後、自分で「酔ってないときにはこんな上手には描けないぞ」と言った。
「それにしても・・・」
と自分で描いた梅の画を見つめ、
「こんなの一体だれが描いたんじゃ?」
と首をひねることもままあったという。
蘇州の虎邱山界隈の景色が気に入って、
築生壙于後山、左右倶植梅花、自題其墓柱曰。
生壙を後山に築き、左右に倶に梅花を植え、自らその墓柱に題して曰う。
生きている間に自分の入るべき墓穴を虎邱の後山に造って、穴の左右に梅の木を植え、墓碑に自分で字を書いた。曰く―――
槐夢醒時成大覚、 槐(えんじゅ)の夢醒むるの時に、大覚を成し、
梅花香裏証無生。 梅の花香るの裏(うち)に、無生を証す。
「槐の夢」は、唐の李公佐の伝奇「南柯記」に基づく。同書にいう、淳于棼(じゅんう・ふん)なる人、ある日、庭先に昼寝していたところを起こされて一国に連れられて行き、ここで軍功を挙げて王女を娶り、その後権力争いに巻き込まれつつ、ついに南柯公となって栄華を窮めたが、ある日突如、国城が崩壊した―――そこで目が覚めた。ちょうど、庭の槐の木が切り倒されたところで、その木には多くのアリが巣食っていた。彼は庭先に居眠りしていた間に、人生の紆余曲折を味わってしまったのである、と。
槐の木の下での夢(現世での人生)が醒めるときには、(本当の世界に生まれて)大いなる覚りを得るにちがいない。
梅の花が香っている(この墓の)中で、わしは生まれることも死ぬこともない「無生」の意味を知ることができるだろう。
嘉慶戊寅年(1818)、病んで友人の浙江・呉門太守・周勗齋の世話になっているときに亡くなった。
太守葬之、成其志也。
太守これを葬り、その志を成せり。
周太守はその葬儀を執り行い、生前の志どおり蘇州に葬ってやった。
のだそうです。
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「履園叢話」十一下より。友だちがいてよかったですね。わしも早く大覚を成し、無生を証したいなあ。