ぐつぐつに沸いた風呂に入れてもらった上、ダイコン、ゴボウ、ニンジンなども一緒に入れてくれるとは、親切なひとたちでぶー。
痛風が出てるみたいなので、食事をまた制限しなければなりません。いてて。
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「論語」陽貨篇に曰く、
佛肸召。子欲往。
佛肸(ひつきつ)召す。子往かんと欲す。
佛肸(ひつきつ)という人は、魯の国の隣の晋の国の大夫・趙氏の有力家臣で、中牟(ちゅうぼう)という町の宰(長官)をしていた人物です。「子」は魯の孔丘、すなわち孔子のことです。
佛肸が(独立を企てたとき)、先生を招聘した。先生はこれに応じて出かけようとするふうであった。
子路がぷんすかして孔子に訊ねた。
昔者由也聞諸夫子、曰親於其身為不善者、君子不入也。佛肸以中牟畔。子之往也、如之何。
昔者(むかし)、由やこれを夫子に聞けり、曰く「親(みずか)らその身において不善を為す者は、君子は入らざるなり」と。佛肸は中牟を以て畔(そむ)けり。子の往かんとするや、これ如何ぞや。
「以前、わたくし由(ゆう)は、先生にこんなふうにお聞きしました。
「自分からその身にとって善でないことをしているやつがいれば、立派なひとはその仲間になろうとはしないものじゃ」
と。いま、佛肸めは中牟の町を制圧して、独立しようとしています(既成秩序を破壊しようとしているのです)。先生がそれに参加しようとしているのは、どういうお考えなのですかな?」
ダブルスタンダードではないか。直球派の弟子である子路に詰め寄られて、孔子は、
然、有是言也。
然り、この言有るなり。
「そうじゃ、たしかにそう言ったぞ。
しかし、まあ、あの・・・・」
と言い訳になるようなならないようなことをおっしゃいます。古来いろんな注釈者が苦しんできたところなんですが、みなさん「論語」を読んでみて、孔子の言い訳が通っているかいないか、ご確認ください。
さて、この佛肸が中牟の町を抑えて独立しようとしたときのこと、孔子も招聘したのですが、中牟の町中にもお触れを出して、
設禄邑炊鼎、曰、与我者受邑、不与我者其烹。
禄邑・炊鼎を設けて、曰く「我に与(くみ)せん者は邑を受け、我に与せざる者は烹られん」と。
(ギリシア都市のアゴラのような広場に)俸禄とする予定の村の名前を掲示する一方、その横に料理用の大なべを置いて、
「わしの味方になる者は俸禄として村からの税金を受け取ることができるのじゃ。わしの味方になろうとしない者は、この大なべでかまゆでの刑罰じゃ」
と宣告した。
「なんと」「迷うことはない」「得する方が得じゃ」「損しない方が損をしないので得じゃ」
と、
中牟之士皆与之。
中牟の士、みなこれに与す。
中牟の自由市民たちは、みんな佛肸の味方になることを表明した。
そこへ、
城北余子田基、独後至、袪衣将入鼎。
城北の余子・田基、ひとり後れて至り、衣を袪(きょ)して鼎に入らんとす。
「余子」というのは、兄弟は公的な地位に就いているが、本人はその義務を課されていない自由市民のことです。「余り」なんですね。「衣を袪(きょ)す」の「袪」はそのままだと「袖」の意、「衣を袪す」は袖を捲り上げることです。
町の北部地区の市民で公職に就いていない田基というやつが一人後れてやってきて、
「おお、よくぐつぐつと沸いておりますなあ」
と言いながら、袖を捲くって大なべの方に入ろうとした。
「おい、それは熱湯だぞ!!」
と佛肸は注意したが、田基は静かに答えた、
義者軒冕在前、非義弗乗。斧鉞於後、義死不避。
義者は軒冕(けんべん)前に在りとても義にあらざれば乗ぜず。斧鉞後に在りとても義として死するを避けざるなり。
道義のわかっている者は、大きな高級馬車や高官の地位が目の前にあったとしても、道義上おかしいなら乗らないものです。首切り用の斧やマサカリが首の後ろに振り上げられていても、道義上そうすべきなら死ぬのを避けないものなんです。
そう言って、
遂袪衣将入鼎。
遂に衣を袪してまさに鼎に入らんとす。
結局、袖まくりして大なべに入ろうとした。
「そいつを死なせるな!」
佛肸播而之。
佛肸、播(は)して之(ゆ)かしむ。
佛肸は手を振って指示し、無事帰らせてやった。
その後、
趙簡子屠中牟、得而取之、論有功者、用田基為始。
趙簡子、中牟を屠るに、得てこれを取り、有功者を論じて、田基を用いて始めとす。
趙簡子は、もとの佛肸の雇い主です。
趙簡子さまは(佛肸の独立を抑えこむため)中牟の町を攻撃し、勝利してまた自分の支配下に取り返したとき、功績のある者、裏切った者を区分けして、田基を功績第一と評価した。
それを聞いて、田基は言った、
吾聞廉士不恥人。如此而受中牟之功、則中牟之士慚之。
吾聞く、廉士は人を恥ずかしめず、と。かくの如くして中牟の功を受くれば、すなわち中牟の士これを慚じなん。
「わたしは、清廉な自由民は他の人に恥じをかかせないものだ、と聞いております。このようなことで中牟第一の功績をいただいてしまったのでは、中牟の他の自由民たちは、悔しい思いをいたしますでしょう」
そして、
襁負其母、南之徙楚。
その母を襁負して、南のかた之(ゆ)きて楚に徙(うつ)る。
おふくろさんをねんねこで背負うと、南の楚の国に逃亡した。
楚王は「これは立派な男じゃぞ」と言いまして、司馬の職に就けたそうです。
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漢・劉向「説苑」巻四・立節篇より。熱湯風呂好きの江戸っ子の人かと思いましたが、かなりしっかりした人だったようです。もしかしたらむにゃむにゃと言い訳している孔子さまよりしっかりしていたかも。「説苑」の編著者・劉向はこの田基の正義感が大好きだったみたいで、別の著書である「新序」(巻八「義勇篇」)にも「田卑」という名前でほぼ同じ話が出てきます。ただ、まるっきり同じでなくて、田卑はまず「余子」ではなく中牟の町の「大夫」(幹部)であり、遅れて来たわけではなく、大夫たちが並べられて佛肸に味方するか否かを順次聞かれて、田卑の番になったときに、
義死不避斧鉞之罪。義窮不受軒冕之服。無義而生、不仁而富、不如烹。
義として死するには斧鉞の罪を避けず。義として窮するも軒冕の服を受けず。義無くして生き、不仁にして富むは、烹らるに如(し)かず。
道義上死ぬべきなら、斧やマサカリの刑も避けることはありません。道義上貧乏すべきなら、大きな高級馬車も高官の服もいただくことはありません。道義を失って生き、仁ならずして金儲けするぐらいなら、死ぬ方がよろしい。
そして、
褰衣将就鼎。佛肸脱履而生之。
衣を褰(かか)げてまさに鼎に就かんとす。佛肸履を脱ぎてこれを生かしむ。
服の腰から下の部分を持ち上げて歩きやすくして、大なべに入ろうとしたので、佛肸は大慌てでくつを脱ぎ捨てて田卑を捕まえ、生きたまま解放した。
袖まくりではなく、裾掲げ。腕を振っただけではなくて、くつが脱げながらも押しとどめた。とはなかなか「劇的」ではありませんか。
乱後の趙簡子に対するコトバも対句になっていて、おそらく劉向のスタッフの一人が、祭祀の際に演じられる神聖演劇の役者のセリフを収録したのだと思うのです。