令和2年5月3日(日)  目次へ  前回に戻る

ぶたキングの王権は、すさまじい食欲によって権威づけられているとされる。

憲法記念日までくるとGWもそろそろ終わりが見えてきます。じわじわと絶望の思いが湧いてきますね。

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憲法記念日なので、今日は特別な文章を読んでみます。

有生之初、人各自私也、人各自利也。天下有公利而莫或興之、有公害而莫或除之。

有生の初めは、人おのおの自ら私し、人おのおの自ら利するなり。天下に公利有るもこれを興すあるなく、公害有るもこれを除くあるなし。

人類が生活しはじめた最初期は、ひとはみなそれぞれ自分勝手にやり、ひとはみなそれぞれ自分の利益だけを考えて行動していた。社会に共通の利益というものがあるわけだが、それを振興しようとするひとなどおらず、共通の害悪というものがあっても、それを除こうとするひとなどいなかったのだ。

ところがやがて、

有人者出、不以一己之利為利、而使天下受其利。不以一己之害為害、而使天下釋其害。此其人之勤労必千万於天下之人。

人者の出づる有り、一己の利を以て利と為さず、天下をしてその利を受けしむ。一己の害を以て害と為さず、天下をしてその害を釈(と)かしむ。これ、その人の勤労は必ず天下の人より千万ならん。

特別なひとが現れた。そのひとは、自分だけの利益を利益と考えず、社会全体に利益があるようにしようとした。自分だけの害悪を害悪と考えず、社会全体がその害悪から解放されるようにしようとした。だが、このひとの苦心と労働時間は、社会の他の人たちの千倍、万倍になったことであろう。

そして、

夫以千万倍之勤労而己又不享其利、必非天下之人情所欲居也。

それ、千万倍の勤労を以て己はまたその利を享けず、必ず天下の人情の居らんと欲するところにあらざらん。

まったく、千万倍も苦心し労働時間を使っても、自分自身は利益を受けようとしないわけだから、社会一般の人のキモチからしたら、絶対そんな状況になりたくない、と考えて当然であろう。

・・・大乗仏教は全く別の思考構造から、「そういうひとがいる」ということを発見しましたが、ふつうは発見できません。

古代の人類の指導者たち(「古之人君」)は、苦労ばかりするのはイヤなので、次のように行動したのじゃ。

去之而不欲入者、許由、務光是也。

これを去りて入るを欲せざる者は、許由、務光、これなり。

「許由」(きょゆう)、「務光」(むこう)は「荘子」や「列仙伝」や「韓非子」に出てくる古代人で、少しづつ伝承が違ったりしますが、大略、許由は超古代の堯の時代のひとで、堯から天下を譲りたいと言われて、

「うひゃー、ひどい話を聞いた、耳が汚れたー!」

と言って川に行って耳を洗ってどこかに行ってしまったひと。務光はもう少し後の夏王国の終わりごろ(紀元前16世紀ぐらい?)のひとで、殷の初代の湯王から天下を譲りたいと言われて、

「うひゃー、ひどいことを聞いた、こんなことを聞かされる自分はダメ人間だ、絶望だー!」

と言って川に身を投げて死んだ、というひと。

逃走して、指導者になるのを嫌がったひとがいる。許由や務光である。

入而又去之者、堯、舜是也。

入りてまたこれを去る者は、堯、舜、これなり。

一度は指導者になったが、そこから逃げ出したひとがいる。堯や舜である。

堯は舜、舜は禹、という後継者を見つけると、国を任せて自分は隠棲してしまった。

初不欲入而不得去者、禹是也。

初め入るを欲せざるも去るを得ざる者は、禹、これなり。

その禹も、最初は指導者になるのを嫌がったのだが、後継者を見つけても引き取ってもらえず、とうとう最後までやらされて、しかも子どもに引き継がされたのである。

・・・みんな伝説の人であるところがちょっと根拠としては弱い感じがしますね。

豈古之人有所異哉、好逸悪労、亦猶夫人之情也。

あに、古えの人、異なるところ有らんや、逸を好み労を悪(にく)み、またなおかの人の情のごときなり。

昔のひとが今のひとと違うことがあるであろうか。楽したくてしようがなくて、働かされるのはイヤであること、いまの人のキモチと同じである。

指導者にされるのはイヤだったのだ。

ところが現代の指導者(「後之為人君者」(後の人の君たる者))はどうか。

(中略)

・・・というような最近の君主の行状を見れば、

則為天下之大害者、君而已矣。向使無君、人各得自私也、人各得自利也。嗚呼、豈設君之道固如是乎。

すなわち天下の大害なるものは、君なるのみ。向(さき)に君無からしめば、人おのおの自ら私するを得、人おのおの自ら利するを得たり。ああ、あに君を設くるの道、もとより是くの如からんや。

つまり、社会の巨大な害悪となっているのが、指導者そのものなのである。古代には、指導者がいなかった。その時代には、人はみなそれぞれ自分勝手にやることができ、ひとはみなそれぞれ自分の利益を確保することができた。(しかし、後世の指導者はそれをさえ邪魔して自分の利益にしてしまうのだ。)ああ、指導者を設けてその指導を仰ぐという社会体制は、こんなことになるものではなかったはずである。

わーい、独自に社会契約説に到達しました!

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清・梨州先生・黄宗羲「明夷待訪録」原君篇より。梨州先生を単純に「清」ひとと定義したら怒られてしまいますね。黄宗羲は明・萬暦三十八年(1610)の生まれで康熙三十四年(1695)に亡くなっています。おやじが明の役人で、反宦官運動で死刑になっているんですが、彼自身も明末(〜1644)にひとかどの知識人として政府に招かれたがこれを拒絶。一方で、新たに興った清朝に対してはまず抵抗し、援軍を求めて長崎まで来たこともある、のですが、清の支配が落ち着くと、自らは「明の遺臣」として仕官せず、在野の学究として思想史を中心にすばらしい業績を遺しました。

今から三十数年前のことですが、彼の著書である「明儒学案」や彼の遺稿を息子の黄百家らが編集・補足した「宋元学案」などは、若き肝冷斎に、チャイナで一番良質な(と当時思われた)人物群である宋〜明の儒者たちの思考と行動を大量に吹き込んだものである。また、黄宗羲の政治哲学みたいなこと(そんな概念無いんですが)を書いた「明夷待訪録」はたいへん読みやすくて正統的な漢文だから、みなさんも漢文入門編的に読むといいと思うのですが、一方でおそらく当時の世界で一番進歩した社会思想というべき(何しろ「王権神授説」を飛び越えてるんです。清末知識人や幕末明治の日本人ではないので、西洋の思想書を苦心して翻訳した、のでもないのですぞ!)内容なので、漢文としてはどうしてもキワモノ扱いになってしまいますね。

なお、黄宗羲の実にエライところは、自分の息子や弟子たちには、康熙帝の清朝に仕官させ、その統治に協力させたところではないかと思います。たいへん見事な出処進退と言うべきであろう。

 

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