フェニックスのように強い意志を持って、復活しなければならない。生き延びて。
高級クラブなどに行かず、自粛しないといけません。行ったことないけど。
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今有人於此、負粟息於路側。
今、ここに人有りて、粟を負いて路側に息(やす)めりとす。
たとえ話ですよ。穀物の入った袋を背負ったひとが、道ばたで一休みしていた、と考えてください。
「さて、と」
その人が一休みを終えて、行く道の遠きを思いながら袋を背負い直して、
「どっこいしょ・・・あれあれ」
欲起而不能、君子見之無長少貴賎、必起之。
起(た)たんと欲してあたわざれば、君子これを見て、長少・貴賎無く、必ずこれを起(た)たさん。
立ち上がろうとしてよろめいてしまい、なかなか立ち上がれないでいるのを見たら、普通のひとは、おじさんでも若いのでも、えらいひとでも賤しいやつでも、
「おいおいしっかりしろ」
ぐらいのことを言いながら、立ち上がるのを助けてやるであろう。
そうでしょうね。
何故也。
何故なるや。
何故であろうか。
と問われれば、うーん・・・、
曰義也。
曰く、義なり。
「そうするものだから、ではないでしょうか」と言うのではなかろうか。
さて、墨子先生(←「子墨子」を直訳したもの)がおっしゃった。
今為義之君子、奉承先王之道以語之。縦不説而行、又従而非毀之。
今、義を為すの君子、先王の道を奉承して以てこれを語る。縦(たと)い説(よろこ)びて行わずといえども、また従いてこれを非毀せんや。
今度は、世に正義を施そうとする立派なひとがいたとする。このひとは、古代の王者たちの則った方法を受け継いで、正義を語っているわけだ。すばらしい、と喜んで、そのコトバどおりに行動しようとまではしないかも知れんが、さらにその人の言動をとりあげて否定し謗るひとばかりなのは、どうしたことか。
則是世俗之君子之視義士也、不若見負粟者也。
すなわち、これ、世俗の君子の義士を視ること、粟を負う者を見るに若かざるなり。
ということは、一般のみなさんの正義の士への評価は、上記の穀物を背負っているおじさんへの評価にも及ばない、ということになるわけじゃなあ。
それでいいと言っているわけではないんですよ。
また、墨子先生はこうもおっしゃった。
商人之四方市、賈倍徙、雖有関梁之難、盗賊之危、必為之。
商人の四方に之(ゆ)きて市するに、賈の倍徙(ばいし)するあらば、関梁の難、盗賊の危有りといえども、必ずこれを為す。
「倍」(ばい)は二倍、「徙」(し)は「蓰」(し)と同じで、五倍のことです。「関梁」のうち「梁」は「橋梁」のことで、川にかかった橋ですが、「関所」と同じくたいてい通行料(関税)をとられるので、「関・梁」と並列しているんです。
商売人が、四方に交易に行くとき、商品の値段が(買値の)二倍や五倍で売れる、というなら、たとえ関所や橋梁の難所があろうと、物盗りや強盗の危険があろうと、必ずそこへ行くであろう。
ところが、
今、士坐而言義。無関梁之難、盗賊之危。此為倍徙不可勝計。
今、士は坐して義を言う。関梁の難も、盗賊の危も無し。これ倍徙を為すや勝(あ)げて計(かぞ)うべからず。
一方で、知識人はいながらにして正義を語っている。関所や橋梁の難所も、物盗りや強盗の危険があるわけでもない。しかも、正義を実行すれば(社会にとって)二倍や五倍の利益を得られることは、わざわざ計算する必要もなく明らかなことである。
然而不為、則士之計利、不若商人之察也。
然るに為さざるは、すなわち士の利を計るは、商人の察に若ざるならん。
それなのに(言葉として正義を語るばかりで)、正義を実行しない。このことから、知識人の利益の予想は、商売人の明察なのにかないっこないことがわかるのである。
こちらも、それでいいと言っているわけではないんです。
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「墨子」第四十七「貴義篇」より。墨子先生はいろいろ理屈がうるさくてついていく気はしないんですが(働き方もモーレツ型だし)、こういう「エラそうなやつへの反発」があちこちにあって、にやにやしてしまいます。
・・・志村けんさんが亡くなってしまいました。容易でない事態が起こっているのだ、と、ようやくわたしなどにも、ひしひしと伝わってきた感じがします。