「ほけっきょ」「ハラが減って来るとウグイスでさえ美味そうに見えてくるでぶのう」と危険なぶたとのだ。
新型コロナで世界中たいへんなことになってきましたが、当方はまた体重が増えてきて困っています。
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食無精糲、飢皆適口。
食(し)には精糲無く、飢うればみな口に適す。
「精」(せい)は「しらげよね」、精白したコメ。「糲」(れい)は「くろごめ」、玄米のことですが、ここでは美食一般と粗食一般との意味で使っているようです。
食べ物は、手間をかけたものでも粗食でも、腹が減ったときには何でも口に美味い。
これは真理ですね。
そこで、こんなコトワザがあります。
善処貧者、有晩餐当肉。
善く貧に処する者は、晩餐肉に当たる有り。
貧乏に上手に付き合っている者は、晩飯は(腹を減らして食べるので)いつも肉食しているかのように満足する。
ところで、わし(←肝冷斎にあらず、原文の筆者)の家は皇族の方々(←本朝の天皇家にあらず、宋の趙氏のこと)がお嫁入りになったり、そちらに嫁に入ったりしている一門でありますから、
常赴其招、家家類留意庖饌。非特調芼応律令、且三字爛熱少。
常にその招きに赴き、家家類して庖饌に留意す。特(ただ)に調・芼(もう)律令に応ずるのみならず、かつ三字「爛・熱・少」有り。
つねづねそういう畏き方々の家に招かれておりますので、一族のどの家も、みんな料理については留意しているのございましてな。素材を調え、芼(えら)ぶことを規則どおりにやるのはもちろん、さらに「爛・熱・少」の三つの決まりを守っております。
ふふーん。
しもじもでは「爛・熱・少」をあまりご存知ないでしょうから、教えてさしあげますと、
爛則易於咀嚼。 爛なれば咀嚼に易し。
熱則不失香味。 熱なれば香味を失わず。
少則俾不属厭而飫後品。 少なれば厭に属(およ)ばず、後品に飫(あ)かしむ。
よく火を通す。よく火を通してあれば、咀嚼しやすい。
あつあつのままで出す。あつあつのうちは、香と味が逃げ出さない。
少しづつ。少しづつなら、おなかいっぱいにならず、後から出る料理も美味しく食べられる。
ということです。おわかりですかのう。ふふーん。
わしは先ごろ所用があって江南から旅に出たとき、
自過淮、見市肆所售羊辺甚大。小者亦度重五六十斤。
淮を過ぎてより、市肆の售(う)るところの羊辺甚だ大なるを見る。小さき者もまた重さ五六十斤を度(はか)れり。
淮水から北へ来ると、市場の店で売っているヒツジの肉片がやたら大きいのを目にするようになった。小さめのものでも、やはり量ってみると30〜40キログラムの重さがあるのだ。
この時代(宋代)では一斤≒600グラム。
蓋河北羊之胡頭、有及百斤者。駅頓早晩、供羊甚腆、既苦生硬。
けだし、河北の羊の胡頭、百斤に及ぶもの有り。駅頓の早晩、供羊はなはだ腆(あつ)く、既(お)えて生硬なるに苦しめり。
「既」は普段「すでに」と訓じていますが、本来の意味は「食べ尽くす」「食べ終える」です。
それにしても、さらに河北まで来ると、ヒツジのアタマとあごの肉だけで60キロにもなるものが売られているのである。宿場では朝も晩も、ヒツジ料理が出るが、たいへん手厚く、食べ終えると腹にたまってしようがなかった。
60キロの肉なんて何人でどうやって食べるのか。
且雑以蕪夷醤、臭不可近。
かつ、蕪夷の醤を以て雑え、臭きこと近づくべからず。
しかも、蕪夷(ぶい)の漬け汁で和えてあるので、臭くて近づくのもイヤになったのである。
「蕪夷」は「山にれ」で、その塩漬け(漬物)は河北の名物だったようです。
ちょっとぼやけてますが、こんなやつだそうです。(「三才図会」による)
河北のやつらが、
若用前二説、製以餉客、豈不快屠門之嚼哉。
もし前二説を用いて、製して以て客に餉(おく)らば、あに屠門の嚼を快くせざらんや。
もし、先に述べた@腹が減ってればなんでも美味い、A爛・熱・少の三原則を大切に、の二つの考えを用いて食べ物を作って客人に食わせてくれたならば、肉屋の食い物が美味くない、なんてことにはならないであろうになあ。
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宋・周「清波雑志」より。みなさんしもじもなので畏きところとお近づきの方のお舌はわれらとはお違いになられるものよ、と反感ももちろんお持ちと思いますが、腹が減ったときに食うと何でも美味いのは本当ですよね。今週は間食し過ぎたし、もう少し少食にしないとなあ。