令和2年3月6日(金)  目次へ  前回に戻る

楽しいハニーワールドである。何もないけど楽しいらしい。

今日は識者から、高度経済成長期の子どもの世界について教えてもらった。何もないけど、明日は必ず今日より豊かになる実感があったんだそうです。

さてようやく週末ですが、世の中は閉館や無観客試合ばかり。患者さんや医療・防疫関係者のことを思えば無事でありがたいのですが、これからしばらくはまだ悪くなるのかと思うと、どうしても落ち込んでしまうなあ。

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清の乾隆(1736〜95)・嘉慶(1796〜1820)年間といえば、「乾嘉の盛世」といわれ、世界史上でもまれなほどの太平を人民たちは楽しんだ・・・とされる時代(もちろん本当は影がたくさんある)ですが、

時際昇平、四方安楽、故士大夫倶尚豪華、而尤喜狭邪之遊。

時際昇平にして四方安楽、故に士大夫は倶に豪華を尚(たっと)び、尤も「狭邪の遊」を喜べり。

時代は右肩上がり、四方からの外敵の侵略の怖れも無く、社会の指導層である士大夫たちは、みな豪勢で華麗なことをよしとし、最も好んだのが「狭斜の遊び」でありました。

「狭邪」(きょうじゃ)あるいは「狭斜」(きょうしゃ)は、もともとは文字通り、狭い道がはすかいに交わってできているようなせせこましい町のことですが、六朝以降はそのような街といえば「遊郭街」や「色町」やろ、ということになって、そういう場所を指すコトバになりました。「狭斜の遊び」といえば、そういう場所で行われる、妓女たちを侍らせた宴遊、我が国でいう「芸者遊び」のことです。

その本場といえば、

在江寧則秦淮河、在蘇州則虎丘山塘、在揚州則天寧門外之平山堂。

江寧に在りては秦淮河、蘇州に在りては虎丘山塘、揚州に在りては天寧門外の平山堂なり。

江蘇の南京では、六朝時代から有名な秦淮河のほとり、

蘇州では、白楽天が開いたという運河沿い、虎丘堤の両側、

揚州城から天寧寺前の門を出て、小川を舟で下って行きつく先の平山堂のあたり

が名高い。

これらは今も観光名所とされているので、みなさん行ったことがあるでしょうなあ。(肝冷斎は鉄石の如き自制心を持っていますから、そんな繁華街には行きませぬがのう)

これらの地では、

画船簫鼓、殆無虚日。

画船に簫鼓ありて、ほとんど虚日無し。

(妓女たちを乗せた)飾り立てた船で笛や太鼓の音楽を奏しないような日はほぼ無いのだ。

妓之工於一芸者、如琵琶、鼓板、崑曲、小調、莫不童而習之、間亦有能詩画者、能琴棋者、亦不一其人。

妓の、琵琶、鼓板、崑曲、小調の如き一芸に工(たく)みなる者、童よりこれを習わざるなく、間にまた詩画をよくする者、琴棋をよくする者有りて、またその人一ならず。

妓女たちといえば、琵琶や拍子木打ち、南曲の歌うたい、小唄のような一芸に秀でた者がいる。彼女らはみんな小さいころからこれを仕込まれているのだ。その中には、さらに詩を作ったり絵を描いたりが得意な者、琴を弾き碁を打つのが得意な者もいて、それがまた何人もいるのだ。

士大夫たちは、

流連竟日、伝播一時、才子佳人、芳声共著。

流連して日を竟え、一時に伝播して、才子佳人の芳声ともに著(あきら)かなり。

そこに居続けて毎日を暮らし、それがまた話題になって、いろおとこと美女の取り合わせと言われて、評判も名声もともに有名になったりする。

むむむ、怪しからん!

―――と、(ジェンダーの観点から?)怒りたくなるかも知れませんが、実は、

以此喪身破家者有之、以此敗名誤事者有之。

此れを以て身を喪い、家を破る者これ有り、此れを以て名を敗り、事を誤まる者これ有り。

このために自らの体を悪くしたり、先祖代々の財産を失ってしまう者がいるのだ。このために名声を失い、取り返しのつかない事になってしまう者がいるのだ。

而人不知醒。

しかして、人、醒めるを知らず。

それなのに、その中にいる人は、目を覚ますことがない。

譬諸飲酒、常在酔郷。是誠何心哉。

諸(これ)を飲酒に譬うれば、常に酔郷に在るなり。これ、誠に何の心ぞや。

これは、飲酒にたとえてみると、いつも酔っぱらったままでいる、ということである(。依存症なのだ)。いったいどういうつもりなのだろう。

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「履園叢話」七「臆論」より。一月は新年で酒が飲めるぞ、二月もまだサクラだ花見だ酒が飲めるぞ、とマス〇ディアや政〇家が言ってた・・・と思ったら、つい先日からは、コロナだダイヤモンドプリンスだ後手後手だと、また酔っ払っている(ように見える)ぞ。いつになったら醒めるのかな。

 

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