令和2年3月2日(月)  目次へ  前回に戻る

シアワセなのであろうと思われる。

今日もマズいの食ったが量的には多かった。美味いものも食ってシアワセに長生きしたい気もする。

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シアワセとは何であろうか。

うーん。

難しいので場合分けしてみましょう。

有生前之福、有死後之福。

生前の福有り、死後の福有り。

生きている間のシアワセというものがあり、死んだ後のシアワセというものもあります。

さらに分析すると、

生前之福者、寿、富、康寧是也。死後之福者、留名千載是也。

生前の福なるものは、寿、富、康寧、これなり。死後の福なるものは、名を千載に留むること、これなり。

生きている間のシアワセというのは、長寿、富貴、それから健康で安らかでいること、である。死後のシアワセというのは、その名を千年以上も歴史に留めること、であろう。

ちなみにこの中では、

康寧最難。

康寧最も難し。

健康で安らかでいること、が一番難しい。

なぜならば、寿命や富貴は、(たとえほかの人を犠牲にしたとしても)自分一人だけで享受できますが、康寧だけは一人だけでは出来ないことだからです。

一家数十口、長短不斉、豈無疾病、豈無事故。

一家数十口、長短斉(ひと)しからず、あに疾病無からんや、あに事故無からんや。

大家族制のもとでは、一族や従者など、一家族が数十人、寿命は長い者も短い者もいるでしょう。その人たちがみな、病気にもかかっていない、事件事故を起こしていない、という時期がどれほどあるというのか。

二匹ともシアワセそうと推測される。

今人既寿矣、既富矣、而不康寧、以致子孫廖落、訟獄頻仍、或水火為災、或盗賊時発、則亦何取乎寿富哉。

今、人既に寿に、既に富めり、而して康寧ならず、以て子孫を廖落せしめ、訟獄頻りにに仍(しばしば)するを致し、或いは水火災いを為し、或いは盗賊時に発すれば、すなわちまた寿富を取るも何かあらんや。

ここに人がいて、既に長寿であり、富貴を得ているとします。しかし、健康で安らかではなく、コドモや孫はだんだんと落ちぶれていき、民事・刑事の裁判にしばしば巻き込まれ、あるいは水害や火災に遭い、あるいは空き巣や強盗の被害を受けるようであれば、長寿で富貴であるとして、いったい何の意味がありましょうか。

それらをこもごも考え合わせると、

生前之福何短、死後之福何長。

生前の福は何ぞ短く、死後の福はな何ぞ長き。

生きている間のシアワセなんてあっという間の出来事で、それより死後、その名が遺るというシアワセはなんと長く続くことでありましょうか。

人間、後世に称賛されるような生き方をしないといかんなあ。

・・・と言ってはみましたものの、

然短者却有実在、長者都是空虚。

然るに短きものは却って実在有るも、長きものはすべてこれ空虚なり。

そうはいっても、短い方の生きている間のシアワセは実感のあるものだが、長い方の死後のシアワセは、まったく虚しいものである。

むかし、晋の張翰が、あるひとから、

卿乃可縦適一時、不為身後名邪。

卿すなわち一時に縦適すべきも、身後の名を為さざるか。

「おまえさんは、その時その時、好き放題で楽しくやっているようだが、死後の名声のために何かをしようという気にはならんのかね」

と問われて、

使我有身後名、不如即時一盃酒。

我をして身後の名を有らしむるは、即時一盃の酒に如かず。

「わしには、死後の名声を得ることよりも、いまこのときの一杯の酒の方がうれしいのだ」

と答えたという(「世説新語」任誕第二十三)のは、

其言甚妙。

その言や甚だ妙なり。

そのコトバ、実にすばらしい。

と思います。

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清・銭泳「履園叢話」七「臆説」より。なんとか適当に飯食えて、しかしいろいろ後悔しながら、でもまあそこそこ納得して、もうしばらく生きていけるならばシアワセというものなのであろうか。

即物的にシアワセであるといえよう。

 

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