食べられるかどうかを検査しているのであろうか。どこから食べるのが美味いのか調査中なのであろうか。いずれにしろ終焉は近いであろう。われらも。
新コロナ肺炎のせいで、大学入試が開催できるかどうか、問題になっているそうですね。
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山といえば川、否といえば応、「試験」といえばカンニング―――ですが、科挙試験の会場にカンニングペーパーなど不正なモノの持ち込みが無いか検査することを、「捜検」と申しました。
捜検之法、不知何始。
捜検の法、何に始まるやを知らず。
「捜検」ということをするという決まりが、いつから始まったのかはよくわからない。
ですが、唐の舒元輿という人の文章に、
士子入場、自携脂燭、聴候唱名捜検等語。
士子入場するに、自ら脂燭を携え、唱名・捜検等の語を聴き候(うか)がう。
受験者が試験場(個室に入ります)に入るときには、自分で灯火や燃料とする脂や燭を持ち、「名前の読み上げ」「カンニング調査(捜検)」などの際にどのように対応するか説明を聞く。
とありますので、少なくとも唐の時代には始まっていたことがわかります。
科挙試験は数日にわたって監禁状態で受けないといけないので、灯火や食事を作るための燃料の準備がいります。
また、晩唐の詩人・杜牧が李飛というひとの行状を記した文章の中に、
飛赴試聞吏唱名、熟視符験、勃然曰、国家如此待賢耶。士受如此之待、而猶自以為賢耶。遂不試出。
飛、試に赴き、吏の唱名し、符験を熟視するを聞き、勃然として曰く、「国家かくの如くして賢を待たんや。士かくの如きの待を受けて、而してなお自ら以て賢なるとせんや」と。遂に試せずして出づ。
李飛は若いころ受験に赴いたが、そこで係官が名前を読み上げ、細部まで「符験」を行うという説明を聞き、ムカムカ、ときて、
「国家がそんなふうにするのが賢者を招くやりかたか! そんなふうなやりかたで接せられて、わしらは自分のことを賢者として待遇されている、と何故思えるのか!」
と言い捨てて、とうとう試験を受けずに帰ってきてしまった。
・・・という記述があるのであるが、
所謂符験亦捜検類也。
謂うところの符験はまた捜検の類ならん。
ここでいう「符験」というのは、カンニング調査「捜検」と同じたぐいのことであろう。
唐の粛宗(在位756〜762)の時の試験で、試験官の中書舎人・李揆が、
今取士不考実、徒捜禁所挟、甚無謂也。
今、士を取るに実を考えず、いたずらに挟するところを捜禁するは、甚だしくは謂われ無し。
「いま、才能ある者を選び取ろうとして試験をするわけですが、実質的な能力の判断にも役立たないのに、ただ不正持ち込みの検査ばかりを行うことには、それほどの理由があるとは言われませぬ」
として、試験場の中庭に、
設五経諸史、請恣尋検。
五経・諸史を設け、尋検を恣ままにさせんことを請う。
試験の出題対象である「易・詩・書・礼・春秋」の五経と歴代の正史を置き、受験者たちが必要に応じて参照できるようにさせたい。
と上奏しているので、唐の時代には、
懐挟之禁猶寛。
懐挟の禁なお寛なり。
持ち込み禁止については、まだ寛大に対処しようという気分であったようだ。
しかるにその後、
南宋の端平元年(1234)、御史・李鳴復が上奏して、
厳懐挟、請懸賞募人告促。
懐挟を厳にし、懸賞して人を募り告促せんことを請う。
「不正持ち込みには厳格に対処することとし、懸賞をかけて、告げ口・垂れこみを募ることとすべきでございます」
と言っており、五代から宋の時代にかけて、持ち込みを不正とする観念が強まったようである。
同じころ、華北の金国では、泰和元年(120!)に上奏者の名前ははっきりしないが、
捜検法太厳、裂衣袒体、殊非待士之礼。
捜検の法はなはだ厳にして、衣を裂き体を袒(はだぬ)ぎにし、ことに士を待つの礼にあらず。
「持ち込み検査のやり方はたいへん厳しく、受験者の着物を裂き(布と布の間にカンニングペーパーを挟むのを調べるためである)、裸にして調べるということになっているのは、ひとかどの人物への待遇に全くなっておりません」
という意見が提出されている。
それではどうすればいいか。
請設一沐浴所、命諸生浴、官為製新衣著之、以防挟帯。
請う、一沐浴所を設け、諸生に浴せんことを命じ、官はために新衣を製してこれに著せ、以て挟帯を防がん。
「試験場に風呂場を設営し、受験生にはここで入浴するように命じることといたしましょう。そして、役所の方で新たに作った服を用意しておいて、入浴後これに着替えさせるのです。これによって確実に持ち込みを防ぐことができます」
これが実現したかどうかは記録上明確ではないが、
似此法甚佳。
この法甚だ佳なるに似たり。
このやり方は実にすばらしいように思われる。
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清・袁枚「随園随筆」巻上「科第類」より。風呂に入れて服までもらえるとはたいへんありがたい。何度でも受けたくなってきますね。
なお、これが「清朝考証学」というものです。こんなこと調べながら生きていたら、人生楽しくてたまらんでしょうなあ。