本日は北方領土の日。久しぶりで国土を守るハニワ絵を描きました。しかしハニワの霊力は守るだけで、取り返すことはできない。
なんとか週末ですが、寒いです。寒くて寝られないぐらいなので、硬直した愚昧な本でも読んでみます。
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清の時代のことですが、
大内有夜光木、蓋貢自異域者。
大内に夜光の木有り、けだし異域より貢ぐものならん。
宮中に「夜になると光る木」というのがあるそうである。おそらく世界のどこかから贈呈されてきたものなのであろう。
これについては、朱竹垞とか査初白といった有名文化人たちが詩を作っているのだが、ただ「不思議だ」「すごい」と言っているばかりで、
未知其形質何似。
いまだその形質の何に似たるかを知らず。
いったいどういう形や性質を持っているのかについては、何も説明してくれていない。
科学的な観察がなされていなかったのである。
ところが、実は、チャイナ国内、それもペキンのすぐ近くにもそれがあったんで、ついに科学的な知見が得られました。
乾隆辛卯年(1771)のことですが、この年は、
秋雨霪潦兼旬不息。
秋雨霪潦として、兼旬息(や)まず。
秋雨が長く続き、数十日も止まなかった。
「霪」(いん)も「潦」(りょう)も「長雨」ですが、特に「霪」は十日以上続くもの、「潦」は大雨になるものをいうようです。
この時、北京郊外の永定河も氾濫しそうになり、わしの弟の阮紫坪はその堤防築造の責任者として現場で勤務していたのであるが、
見北岸龍神廟中有大木一段、委置河堧、経雨淋水濡、年既久。
北岸の龍神廟中に大木一段有りて、河堧(かぜん)に委置され、雨淋水濡を経て年既に久しきを見る。
北岸に龍神を祀った廟があり、そこには大木がひとかたまりになって川岸に放置されていた。雨に打たれ水に濡れてもう何年も経っているようであった。
それが、
至夜有青光、熒熒然照数尺許。
夜に至りて青光有り、熒熒然(けいけいぜん)として数尺許(ばか)りを照らす。
夜になると青い光を放つのである。きらきらとして、周囲1メートルぐらいは照らし出すほどの明るさであった。
やがて長雨も止み、晩秋になって、
及霜後水涸、其光漸微、九月望後、則頓無光矣。
霜後水涸るるに及びてその光漸く微となり、九月望後にはすなわち頓に光無かりき。
霜が落ち、水が減り始めると、その光はだんだんと弱くなった。九月の満月(太陽暦10月下旬ぐらい)を過ぎると、もう全く光らなくなってしまったのだ。
「いや、ほんとうに不思議なことでしたよ」
と、紫坪らは
相伝為異事。
相伝えて異事と為す。
不思議なことだ、不思議なことだ、とあちこちに言いふらした。
「おろかものめ!」
とわしは言ってやった。
是無足異也。木為火之母、火為水之妃。水火相薄而光生焉、亦物理之自然者也。
これ、異とするに足る無し。木は火の母たり、火は水の妃たり。水火相薄(せま)りて光生ずるは、また物理の自然なるものなり。
そんなもの、どこが不思議なことであろうか。紀元前からある「五行説」によって、すでに、
〇木→火→土→金→水(→木・・・)と生み出していく(相生の関係)
〇水→火→金→木→土(→水・・・)と克服して支配していく(相克の関係)
であることは明らかにされている。ということは、木は火を生み出す母であり、火は水に支配される妻である(※)。水と火がせめぎあえば光が生じるのは、これはもう物の理の当たり前のことではないか。
そんなこともわかっておらんとはのう。
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清・阮癸生「茶余客話」巻十九より。「木と水があると、どこでも光があるんですか? おまえさんの理論には再現性が無いんでは?」と訊かれるとマズイのだが、兄貴で元役人でうるさいから男社会では誰も突っ込まなかったのであろうか。
※→男女共同の理により、ゲンダイでは間違っていたことが明らかになっています。
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