「今日はおいらたちヘビ族が登場。あやうく食われるところだったでにょろーん」。右下はカッパの頭であろうか。
来年への不安と恐怖からうつうつしてきました。肝冷斎族はもうダメかも。
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南朝の宋の時代、晋平(福建福州)の太守となった人に、虞愿(ぐ・がん)、字・士恭というひとがいました。
在郡不治生産。
郡に在りて生産を治めず。
太守に在職中、生活のための事業を経営しなかった。
↑というと、まともな行政をしなかった、というふうに感じるひともいるかも知れませんが、それはゲンダイの観点から過去を見てしまっているからです。ここでいう「生産」=生活のための事業は、虞愿自身の「生活のための事業」のことで、所管の地域のことではありません。要するに、太守在職中に職権その他を利用して自分の財産を増やさなかった、ということです。
それが特記すべきことであるような時代だったんです。荘園制の時代ですからね。
虞愿は例えば、
前政与民交関、質録其児婦。
前政、民と交関し、その児婦を質録す。
前任の太守が、人民と売買をして、相手のコドモやヨメを質に取っていた。
離任に当たって催促したが、借金を払ってくれなかったので、太守はそいつらを強制連行して都に引き上げようとしていた。虞愿はそのことを知ると、
遣人於道奪取将還。
人をやりて道に奪取し将(ひ)きて還る。
人を遣わして、前任太守一行を追いかけさせ、道中において質草にされていたコドモやヨメさんを奪い返して、家に戻してやった。
こういう行為が、当時は「生産を治めない」行動と考えられたのです。
晋平郡では、
旧出蚦虵、胆可為薬、有餉愿蛇者。
旧(もと)蚦虵(ぜんだ)を出だし、胆薬と為すべく、愿に蛇を餉せんとする者有り。
以前から大蛇が特産品で、このヘビの内臓はクスリになるとされていた。新しい太守が来たというので、地元のひとが虞愿にヘビ料理を御馳走しようと公邸に持ち込んできた。
「にょろーん」
とこちらを見つめるヘビを見て、
愿不忍殺、放之二十里外山中。
愿は殺すに忍びず、これを二十里外の山中に放つ。
虞愿は殺すのがかわいそうになり、8キロぐらい遠くの山の中に持って行って解放してやった。
一里はいわゆる「シナ里」で、当時は400メートル余です。明清のころには600メートル。
ところが、
一夜虵還床下。
一夜、虵床下に還る。
その晩のうちに、そのヘビは公邸の床下に帰ってきていた。
復送四十里外山中、経宿復還故処。
また四十里外の山中に送るに、経宿また故処に還る。
今度は16キロ以上遠くの山の中に連れて行かせたところ、次の日の晩にまたもとのところに戻ってきていた。
ヘビは一日に8キロ移動できることがわかりますね。
論者以為仁心所致也。
論者以て仁心の致すところなりと為す。
「ヘビが戻って来るのは、太守さまの仁愛のおこころによることでございますなあ」と称賛するやつが出る始末であった。
更令遠、乃不復帰。
さらに遠からしむるに、復帰せず。
もっと遠くに連れて行かせたら、さすがに戻ってこなくなった。
そうです。
福建の海辺には「越王の石」とよばれる岩があった。
常に雲霧に隠されて陸地からは見えないのですが、従来から、清廉な役人が来ると見えることがある、と言われていました。
虞愿が視察のためにここを通った日は、
清徹無隠。
清徹して隠るる無し。
からりと晴れあがって、はっきりと見えた。
のだそうです。
後、南斉の時代になって、琅琊の王秀之というひとが太守になったとき、
此郡承虞公之後、善政猶存、遺風易遵、差得無事。
この郡、虞公の後を承け、善政なお存し、遺風遵いやすく、やや無事を得たり。
「本郡は虞愿さまの任期の後をうけて、善き政治がまだ残っており、ひとびとも従順で、しばらく何にもしなくてもいいように思われる」
と言いまして、ほんとに何にもしなかった。
そしてまる一年すると、
此郡豊穣、禄俸常充、吾山資已足。豈可久留以妨賢路。
この郡豊穣にして禄俸常に充ち、吾が山資すでに足る。あに久しく留まりて以て賢路を妨ぐるべけんや。
「本郡は豊かな土地であり、給料はいつもきちんきちんと受け取れるから、わしが山中に隠棲して暮らすための原資はもう貯まった。わしみたいな者がさらにこの職に留まって、カシコいやつらの出世の道を邪魔するのもどうかと思われるなあ」
と言いまして、辞職して家に帰ってしまった。
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清・梁章鉅「帰田瑣記」巻三より。清の時代のひとが六朝時代の歴史書から抜粋してメモしたもののようです。
虞愿さまの善政を証明してくれているのが、「ヘビ」と「岩」と「何にもしない太守」というところが奥ゆかしく、うつうつとした気持ちがさわやかになる・・・ことはないですね。それほど多大なイヤなことが来年待ち受けている(と思われる)のだ。ああもうダメだー。