ツラい世の中から逃れるために居眠りをしていると、チクチクと起こしに来るやつがいたりするのである。
社会とか会社がイヤなので、洞穴や袋の中に入って、もう出て来なければいいように思うのである。
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「布袋(ほてい)さん」といえば、普通は後梁の奇僧・定応大師・布袋和尚(→「布袋伝」参照)のことだと思いますよね。いいとこ、トラヤスのことですよね。
ところが、チャイナでは
世号贅婿為布袋。
世に「贅婿」を号して「布袋」と為す。
世間では、入り婿で来た男性のことを、「布袋」(ほてい・ほたい)と呼ぶ。
のだそうです。
「贅婿」の「贅」(ぜい)は「贅沢」の「贅」ですが、もともと質に入れた質草のことで、借金の方に婿入りさせられたものが多かったので、入り婿のことを「贅婿」というようになったのだ、とかなんとかという説があります。
しかし、「布袋」の方については、
多不暁其義。
多くその義を暁(さと)らず。
なぜ(入り婿を)そのようにいうのか、意味がわかっていない人が多い。
よくいうのは、
如入布袋、気不得出。
布袋に入るが如く、気、出づるを得ざればなり。
布の袋に入れられているように、好きに呼吸も出来ない扱いだからだ。
というのであるが、それなら「布袋中」というべきであって「布袋」にはならない道理であろう。
・・・と、ずっと疑問に思っていたのですが、
頃附舟入浙、有一同舟者号李布袋。篙人問其徒云、如何入舎婿謂之布袋。
頃(さき)に舟に附して浙に入るに、一同舟者に「李布袋」と号する有り。篙人、その徒に問うて云うに、「如何ぞ入舎の婿を「布袋」と謂うや」と。
この間、乗り合いの客船に乗って浙江に行ったとき、同じ船に「李布袋」と周りから呼ばれているひとがいた。船頭さんもわたしと同じ疑問を持っていたみたいで、その人の仲間たちに「どうして入り婿のことを「布袋さん」と呼ぶのかね?」と質問した。
「ええ?」
衆無語。
衆、語無し。
みんな茫然として答えが無かった。
変な沈黙の時間がしばらく流れたあと、
忽一人曰、語訛也。
たちまち一人曰く、「語の訛なり」と。
その中の一人がはっと気づいて、言った。
「船頭さん、それは聞き間違いだよ」
「聞き間違い?」
「「布袋さん」なんていってないんだよ。
謂之補代。人家有女無子、恐世代自此絶、不肯嫁出、招婿以補其世代爾。
これを「補代」(ほたい)と謂うなり。人家に女有りて子無ければ、世代のこれより絶するを恐れて、あえて嫁出せず、婿を招きて以てその世代を補(おぎな)えるのみ。
それは「補代(ほたい)さん」と呼んでいるのだ。ある家にムスメはいるけどムスコがいないとき、そこで家系が断絶してしまうのを恐れて、ムスメをヨメにやらずに、婿をとって家を継がせる、「世代を補う」人、という意味で「ほたいさん」と呼ぶんだ」
なーるほど、そういうことだったのか。やっと理解できました。ほんと、
此言絶有理。
この言絶して理有り。
こんな道理の通った話はまず聞けるものではない。
よかったですね。
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宋・朱翌「漪覚寮雑記」より。「布袋さん」ではなかったんです。やっぱり「洞穴さん」になるしかないか・・・。