令和元年11月14日(木)  目次へ  前回に戻る

「おまえひとりで行かなければならないのでコケー!」

退職して逆に忙しくなったわい。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

唐のころ、洞山良价禅師が師匠の霊岩禅師に質問しました。

無情説法什麼人得聞。

無情の説法、什麼(しま)の人聞くを得ん。

「無情の説法というものはどういう人なら聞くことができるものなんでしょうか」

お師匠が言いました、

無情説法無情得聞。

無情の説法、無情聞くを得ん。

「無情の説法なら、無情のものが聞くことができるんじゃろうなあ」

「なんと。

和尚聞否。

和尚聞くや否や。

お師匠は聞いたことがあるんですか」

「はあ? 何を言っておるのか。

我若得聞、汝則不得聞吾説法也。

我もし聞くを得ば、なんじすなわち吾が説法を聞くを得ざらん。

「わしがもしそれを聞いたことがあるなら、おまえはいま、わしの説法など聞くことができていないぞ」

「なんと。

若恁麼即良价不聞和尚説法也。

もし恁麼(いんも)ならば、即ち良价、和尚の説法を聞かず。

もしそのようになっていたなら、この良价は、お師匠の説法なんか聞きませんよ」

「ほれみろ、

我説法汝尚不聞、何況無情説法。

我説法するも汝はなお聞かず、何ぞいわんや無情の説法をや。

わしが説法してもおまえは聞かないんだから、どうして無情の説法を聞くことができようか」

「がーん」

師於此大悟、乃述偈呈霊巌。

師ここにおいて大悟し、すなわち偈を述べて霊巌に呈す。

洞山禅師はここで大いなる悟りを開き、そのキモチを詩の形にして霊巌師匠に提出した。

曰く、

也大奇、也大奇、 また大いに奇、また大いに奇、

無情説法不思議。 無情の説法、不思議なり。

若将耳聴終難会。 もし耳を将(もち)いて聴かんとすればついに会しがたし。

眼処聞声方得知。 眼処に声を聞けばまさに知るを得ん。

 まったくへんなもんだ、まったくへんなもんだ、

 無情が説法するのは考えもつかぬ。

 もし耳で聴こうとしたなら最後まで理解できないであろうが、

 目の玉で声を聞いてみたら知ることができるだろう。

「よっしゃ」

巌許可。

巌、許可す。

霊巌禅師は洞山良价禅師の悟りを認可した。

よかったです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

本朝・瑩山紹瑾「伝光録」三十八祖・洞山悟本章より。もと「伝燈録」巻十五に出るそうです。

瑩山禅師の「提唱」(解説)にいう、

尋常に人思はく、無情といふは、墻壁瓦礫燈籠露柱ならんと。いま国師の道取のごときは不然(しからず)。

ふつうの人が考えると、「無情」というのは「心が無い」すなわち垣根やら壁やら瓦と小石、燈籠や屋外の柱などのことだろう、ということになる。しかし、ここで洞山禅師が見出したものはそうではないのだ。、

凡聖の所見未分、迷悟の情執未発、いはんや情量分別の計度にあらず、生死去来の動相にあらず。幽識あり、実にこの幽識熾然として見覚す。情識の繋執にあらず。

凡人と聖者の見解が分かれる前、迷いと悟りの心が発する前の状態のことなのだ。心が思量したり分別して計り知れるものであるはずもないし、生き死にしていく生き物の輪廻のどこかではありえない。かすかな認識主体があって、そのかすかな認識主体が炎が燃え上がるように覚り見るのだ。一般的な認識が捉われて見るものではない。

まあいいや。

いたるところひとりみづからゆくとしらば、一切如如にかなはざるときなし。

どんなところにも、おまえはひとりだけで行くのだ、ということがわかったら、すべてのことが真理にかなうことになるであろう。

よっしゃ。これが聞きたかったんです。「いたるところひとりみづから」ゆくぞー。ということで明日からしばらく更新をお休みします。

 

次へ