令和元年11月13日(水)  目次へ  前回に戻る

退職して最近ヒマなので、こんなものを作っていました。切り離して裏返すと、神経衰弱ゲームに使える便利なカードだ。若いころから「仕事」をしなくていい、と言われていたらいい「シゴト」できたかも知れないのになあ。

風邪が治らないのでお昼も晩も多めに食ってみました。少し動きが悪くなったような気がします。若いころから「動きが悪い」とよく叱られたものですが、さらに悪くなってきた。

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北宋の名臣として名高い正公・范仲淹が睢陽の太守をしていたとき、蘇州の自家で収穫したムギを船積みしたので、誰かに取りに来させてほしいという連絡を受けた。

若い書生のぼんやりしたのがいたので、これに行ってこいと命じた。

「わかりました」

書生は蘇州まで行き、范家の留守を預かっている責任者から、

「先生にお届けください」

とムギを満載した五百石積みの船を預けられた。

「わかりました」

船乗りたちを監督して、運河を通って運ぼうとしたのですが、丹陽の街まで来たとき、名高い文化人の石曼卿が宿泊していると聞いて、その宿を訪ねた。

「石先生、わたしは范文正の書生でございますが、

寄此久近。

ここに寄ること久しきや近きや。

「この地にどれぐらい留まっておられるのですか?」

石曼卿は答えた、

両月矣。三喪在浅土、欲葬之西北帰、無可与謀者。

両月なり。三喪浅土に在りて、これを西北に帰りて喪せんと欲するも、ともに謀るべき者無きなり。

「もう二月になる。田舎で三年の喪を行う必要が生じ(父親か母親が亡くなったんです)、西北の郷里に帰って喪に服したいと考えているのだが、(旅費の都合などを)相談できるひとがいないのだ」

と。

「それならばこれをお使いください」

書生は

以所載舟付之。

載るところの舟を以てこれに付す。

乗ってきた船を石曼卿に預けてしまった。

五百石のムギも雇った船乗りたちもそのままである。

そうしておいて、自分は、

単騎而去。

単騎にして去る。

一人だけになったので馬を手に入れて睢陽に帰った。

范家に到着すると、すぐに先生のもとに行き、

拝起侍立良久。

拝起して侍立することやや久しうす。         

腰を折って拝礼をして立ち上がると、側に立ってしばらく何も言わなかった。

帰還したので拝礼したのですが、それ以上何の報告もしない。

范文正の方も、しばらくムギのことなど何も問わずにいて、やがて訊いた、

東呉見故旧乎。

東呉に故旧を見しか。

「蘇州の方で、誰かわしの知り合いと会うたか?」

書生は答えた、

曼卿為三喪未挙、留滞丹陽。

曼卿、三喪を為すにいまだ挙せず、丹陽に留滞せり。

「石曼卿どのが、三年の喪に服しようとしてまだ帰れず、丹陽の街に留まっておられました」

范文正は言った、

何不以麦舟付之。

何ぞ麦舟を以てこれに付せざる。

「それなら、丹陽まで戻って、ムギを積んだ船をやつに使わせてやれ」

「はい、わかりました」

書生は続けて答えた、

已付之矣。

すでにこれを付せり。

「もうお預けしてまいりました」

「わはは、わしの見込んだとおりじゃ」

范文正の喜びは一方でなかったという。

実はこの書生こそ、後に布衣(朝廷に仕えていないひと)のまま、洛陽の町で朝野の尊崇を集め、宋国の未来までも占ったという不思議な詩人哲学者兼疑似科学者、安楽窩先生・邵雍(字・尭夫)の若いころだったのだそうでございます。

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宋・釈恵洪「冷斎夜話」より。仕事がめんどくさくて船ごと預けてきてしまったんでしょうね。ああ、わしも若いころからこれぐらい任せてくれていれば、いいシゴトしたかも知れないのになー。(うそ)。(ちなみに「冷斎夜話」は「肝冷斎」で検索するとよくひっかかってきます。)

例えばカッパカードはこうなっています。

 

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