令和元年10月21日(月)  目次へ  前回に戻る

我が国の戦国時代や明清交代期の16〜17世紀に高価なガラクタ兵器を大量に売りつけにきたといわれるぶた宣教師。あまりにも殺傷能力の低いガラクタばかりであったので、騙されたのはぶたとのぐらいであったろうと推測されている。

昨日悩んでいた不安なシゴトは、なんと明後日に持ち越し。不安は続きます。明後日が来ないで欲しいなあ。コワいなあ。勇気が欲しいなあ。

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清(後金)の太祖・努爾哈赤(ぬるはち)の八大臣の一、額亦都(あやーと)さまはたいへんな勇気の持ち主であられた。

父母為仇家所殺、匿于隣人。

父母、仇家の殺すところと為り、隣人に匿まわる。

両親は仇敵の一族に殺されたが、このとき隣人の家に匿われて何とか生き延びた。

その後行方がわからなくなっていたが、

年十三、殺父仇帰。

年十三にして父仇を殺して帰る。

十三歳の時に父の仇敵に復讐して殺し、平然と家郷に帰ってきたのである。

「そいつは巴図魯(バートル)じゃな」

「巴図魯(バートル)」とは満州語の「勇者」。ドラクエの主人公みたいなひとのことです。

このとき、満州族の統一に腐心していた愛新覚羅努爾哈赤(えじんぎょろ・ぬるはち)は、この少年と面会して、

「よい面構えをしておる。これからはわしに従え」

「はい!」

と言いまして、妹をヨメにくれたのでもらいました。

これが和碩公主である。

夫婦仲睦まじく、十六人の息子がおられたんじゃ。(さすがにすべてが公主のコドモではないようです)

すべて名の有る方々であった。

長子は班錫(はんしゃく)さまで、佐領(士官)となられた。

第二子は達奇(だるち)さま。

第三子は車爾格(しゃるげさまで、杭州将軍、八大臣の一となられた。

第四子は含袋(はんたい)さまで、若くして戦死された。

第五子は阿達海(あだるはい)さまで、佐領となられたが、戦死された。

第六子は達隆阿(だるろんあ)さま。

第七子は茂海(もはい)さまで、戦死。

第八子は図爾格(とるげ)さまで、順治年間に二等公、吏部承政を務められた。

太宗・皇太極(ほんたいじ)の崇徳三年(1638)、明の名将・袁祟煥及び洪承畴の十三万の兵と戦った錦州城攻防戦で、

身被二十三箭、馬傷十九処、仍力戦、俘獲。

身に二十三箭を被り、馬の傷十九処、なお力戦して俘獲さる。

自身のお体には二十三本の矢が突き刺さり、馬は十九か所傷ついていたが、なお闘い続けて捕虜になった。

捕虜交換で帰って来た後、その恥を雪ぐと称して、

同七年(1642)の山東征服の際に、

破敵三十九次、下九十四城、殺魯王及明宗室千人、俘獲人三十六万九千有奇。

敵を破ること三十九次、九十四城を下し、魯王及び明の宗室千人を殺し、俘獲の人三十六万九千有奇なり。

三十九回の戦いで敵を破り、九十四の町を征服し、明の魯王と皇族の者千人を殺し、三十六万九千人余りを捕虜にした。

のである。

第九子は図爾錫(とるしゃく)さま。

第十子は宜爾登(ぎると)さまで軍功により二等伯、順治十三年(1656)に引退された。

備屯戌、決獄訟、屢立戦功。

屯戌に備わり、獄訟を決し、しばしば戦功を立つ。

守備隊の指揮を執ることもでき、司法官としても優秀であったが、戦士としてしばしば前線で戦功を立てた。

これも錦州城攻防戦の際に、

奮入敵囲、身被三創、馬中十八傷死、又換馬中八傷死、又換馬中五傷死。四敗敵軍而出。

奮るって敵の囲みに入り、身に三創を被り、馬は十八傷に中りて死に、また馬を換えて八傷に中して死に、また馬を換えて五傷に中りて死するも、四たび敵軍を敗りて出づ。

敵の包囲の中に飛び込んで、自ら刀傷を三か所に負い、馬が十八か所傷を受けて死んだので、馬を換えたところ八か所傷を受けて死んだので、また馬を換えて五か所傷を受けて死んでしまったが、包囲する敵を四回破って、ようやく囲みの中から退いてきた。

太宗嘉其勇、世祖絵其像二、一貯内庫、一与其家。康熙二年卒。

太宗その勇を嘉し、世祖その像を絵すること二にして、一は内庫に貯わえ、一はその家に与う。康熙二年に卒す。

太宗・皇太極(ほんたいじ)はその勇気をお喜びになられ、世祖・順治帝は彼が勇戦する姿の絵を二枚描かせて、一枚は宮廷に止め、もう一枚を彼の家にお与えになった。康熙二年(1663)に亡くなった。

第十一子は敖徳(ごうとく)さまで、軍功あり、官は戸部尚書に至った。

第十二子は額森(がくしん)さまで、都統(部隊長)になられた。

第十三子は超哈爾(ちょうはる)さまで、軍功あり、議政大臣に至り、崇徳七年(1642)陣中に没す。

第十四子は格爾特(げるどく)さま。

第十五子は索渾(つぉぐぃん)さまで、議政大臣になられた。

第十六子・遏必隆(あっぴろん)さまは崇徳六年(1641)の戦いで、

験箭射殺独多、太宗曰、巴図魯之子、仍巴図魯也。

箭を験して射殺すること独り多く、太宗曰く、「巴図魯(ばとる)の子はなお巴図魯なり」と。

弓を使って他に見られないほど多くの敵を射殺した。太宗は「バートル(勇者)の子はやはりバートルであるのう」とおっしゃられた。

後、一等公、輔政大臣に至り、太師の称号を加えられ、順治帝のもとでは外戚として重きをなした。

・・・んだそうです。

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「茶余客話」巻八より。すばらしいなあ。勇者はすごいなあ。わしも勇気を出さなければ・・・。明日は即位礼正殿の儀で休日なんで、明日までは勇気が持ちそうです。だが明後日はムリだ。

 

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