令和元年10月2日(水)  目次へ  前回に戻る

たまたまわしには適切な境遇ですが、隠者の生活がみなさんにとっても住みよいかどうかはわからないでぶー。

なんと。まだ水曜日だったとは。隠棲しているので時々曜日がわからなくなるんですよ、ぶっひっひ。

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隋の時代のことです。

邳国公・蘇威さまは

好古物、鐘鼎什物、圭璽銭貝必具。

古物を好み、鐘・鼎・什物、圭・璽、銭具必ず具わる。

古いモノを好んで、古代の鐘やナベ、食器類、縦長の玉、はんこ、古銭類など、なんでも収集していた。

すばらしい。古書やカメラやウルトラマンのおもちゃやプロ野球カードやら集めたがるひとはいますから、これは大臣クラスの方の趣味としては許されるでしょう。

ところが、文中子・王通先生はこれを聞いておっしゃった。

古之好古者聚道、今之好古者聚財。

いのしえの古きを好む者は道を聚(あつ)めしに、今の古きを好む者は財を聚むるか。

「むかしの古いモノの収集家は、古きより伝わる知恵や道義を収集していたのだが、最近の古いモノの収集家は、財物を収集しているのじゃなあ」

と。

なんと。ひとの趣味にケチをつけるとは。

また、あるとき、文中子は、隠者の仲長子光に問うた。

山林可居乎。

山林は居るべきか。

「(都市を離れて)山野や田園は住みよいですかな」

仲長子光は答えた。

会逢其適也。焉知其可。

たまたまその適に逢えり。いずくんぞその可を知らん。

「たまたまわたしには適切な境遇ですが、(一般に)住みよいかどうかはわかりません」

「ほほう」

文中子は言った、

達人哉。隠居放言也。

達人なるかな。隠居して言を放つ。

「よくわかったお方じゃなあ。隠棲して、言いたいことをおっしゃられている」

仲長子光は引き退がって、文中子の弟子である董常と薛収に言った。

子之師其至人乎。死生一矣、不得与之変。

子の師はそれ至人なるか。死生一にして、これとともに変ずるを得ず。

「おまえさんらの先生は、あれは最高ニンゲンじゃなあ。死ぬも生きるも同じだと認識していて、そんなことであのひとの意志を変えさせることはできないようじゃ」

「荘子」逍遥游篇に曰く、

至人無己、神人無功、聖人無名。

至人には己無く、神人には功無く、聖人には名無し。

最高の人間には自分というものがない(ようにしか見えない)。神の域に達している人間には何もしたシゴトがない(ようにしか見えない)。聖なる人間には名前などない(ようにしか見えない)。

と。「至人」は最高級のニンゲン存在である。

薛収はそこで、文中子に「隠」とはどういうものか、と質問した。

すると、文中子はお答えになられた。

至人天隠、其次地隠、其次名隠。

至人は天隠し、その次は地隠し、その次は名隠す。

最高の隠者は、その天性を隠すものじゃ。すると、他の人が見てもそのひとが優れているかどうかさえわからなくなる。次のレベルの隠者は、地方に隠れる。山林や田野に隠れ住む賢者たちがこれに当たる。その次のレベルは、名を隠す。そのあたりの町の中などにいるが、名声を隠してしまうので、誰にもあの賢者だとはわからない。

なのだそうです。

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隋・王通「文中子中説」巻四「周公篇」より。みなさんもおそらく隠者だと思いますが、どのレベルの隠者ですか。わしはもう天隠まで来ているかも知れませんなあ。うっしっしっし。

ちなみに文中子と弟子たちから諡名された王通、字・仲淹は、北周の大象二年(580)に生まれて隋の大業十三年(617)に三十代で亡くなっています。当時としても若くして亡くなったひとですが、隋や唐初の名臣たちがずらりとその弟子に名を連ねており、その人格的影響力はかなり強烈だったようです。「儒教」に「人格を陶冶する学問」として新たな息吹を吹き込んだひと、といえましょう。

その死後、弟子たちがその言行録を「論語」の体裁にならって集めたのが「文中子中説」で、この中では、王通は隋の時代のひとなのに古代の孔子の真似みたいな言い方をしています。しかしそれは弟子たちがそんなふうにしてしまっただけで、生前の王通がそんなしゃべり方をしていたわけではないようですので念のため。

 

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